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邪馬台国問題 第11回(「史話の会」5月例会)

2021-05-17 13:34:25 | 邪馬台国関連
5月16日(日)「史話の会」の5月例会を開催した。場所は東地区学習センター。

昨日は朝早くから南風のせいで気温が上昇し、加えて湿度も半端ではなかったので、初めて冷房を入れて学習した。

前回で魏志韓伝に載る南朝鮮の「三韓」(馬韓・弁韓・辰韓)のうち馬韓の条が終わったので、今回は弁韓と辰韓に入った。テキスト『邪馬台国真論』(拙著・2003年刊)の133ページから150ページまでである。

今回は辰韓の歴史的な建国過程が肝である。


【弁韓と辰韓】(魏志韓伝より)

韓伝の本文に、<弁韓と辰韓とは雑居す>という表現があり、弁韓12国及び辰韓12国とは兄弟国家のような不思議な関係にあることが分かる。国境を越えて自由に往来し交易したり、居住することができたと思われる。

双方で合計24か国が列挙されているのだが、弁韓の部、辰韓の部と分けているのではなく、混合列挙なのも不可解と言えば不可解である。ただし、弁韓の国家群の国名の頭には「弁辰ミリミト国」とか「弁辰セット国」というように、「弁辰」が付されているので、間違うことはないが、それなら初めからそれぞれの12国を分けて書けば良さそうなのだがそうしていない。

これらの条件を考えてみると、弁韓と辰韓の間には次のような関係があることを想定できる。

「弁辰」という表現は、「弁+辰」の意味ではなく、「辰を弁(わか)つ」の意味ではないか。つまり弁韓は辰韓から分かれた国家群であるという事。

すなわち、もともと辰韓12国があったところに、あとから土地の一部を「弁(わか)」って貰って建国したのが弁韓だろうということである。

そういう状況をもたらしたのは「伽耶鉄山」の盛況であったと思われる。本文には

<国、鉄を出す。韓・濊・倭、みな従いてこれ(鉄)を採る。諸市において買うにみな鉄を用う。中国の銭を用うるが如し。また以て二郡に供給せり。>

とあり、伽耶鉄山を開発しつつ、そこで鉄素材の鉄鋋(テッテイ=鉄の延べ棒)に仕上げ、それを貨幣に使っていたこと。また二郡(帯方郡と楽浪郡=魏の半島における植民地)にまで供給していたことが分かる。

それほどの盛況は九州島からの倭人を惹き付けずにはおかず、航海民と言われる北部九州の安曇族や宗像族は無論だが、南九州の鴨族も西九州を経由して半島に渡り交易に従事していた可能性が高い。

1~3世紀の列島への鉄の供給の多くは北部九州にもたらされ、そこで利用(鉄刀・鉄剣・鋤・鍬などに加工)され、あるいは交易品として各地に運ばれた。(※機内では3世紀以降にならないと鉄製品の副葬などは見られない。)

このような交易を支える「文身(入れ墨)」を施した航海民の存在抜きに、この時代の半島と列島との関係を語ることはできないことは肝に銘じておかなければならない。(※列島と半島との間の航路は定期航路に近かったかもしれない。)

さて、辰韓の建国の特異性について書いておこう。

馬韓の条で、<辰王は月支国を治す。>と書くので、当時、辰王は馬韓の一国である「月支国」に君臨していたのかと思えばそうではなく、当時はそこを起点にしてさらに東を開拓し、最初6国から、そしてついには「辰韓12国」を支配する王(韓王)になっていた。

ところが<その後は絶滅し、今は韓人で祭祀を続けるだけの者がいる(に過ぎない)。>とあり、また<辰韓12国は辰王に属す。辰王は常に馬韓人を用いてこれ(統治)を作し、世々、相継ぐ。辰王は自立して王と為るを得ず。>というのである。

「辰王が辰韓12国を馬韓人を登用して治めさせている」とあるのは、次の経緯があったからだ。

辰王の先祖でもと北朝鮮にいた箕子「準」が、遼東の漢人で衛満という者が漢王朝建国時代の混乱で半島に入ってから、追い出されるように南方の韓地に移った(紀元前194年)。その時に馬韓が国内の東の地に土地を与え、準王に国を継がせた。

準王はそこから東へ国を広げ、紀元後の2,3世紀には辰韓12国の王(辰王)となった。そこに鉄資源の獲得を求めて大量の倭の海人族が渡来し、辰韓王に鉄資源開発と加工交易に都合の良い洛東江沿いの土地を分けてもらった。それが発展して「小は6~7百戸、大は4~5千家」の小国家群となった。それが弁韓国家群の成り立ちであった。

一方、肝心の辰王に属する辰韓12国における統治では、馬韓人を登用して治めさせている。しかも「辰王が自ら立って王と為るを得ず」というわけで、辰王は当の辰韓国内で君臨してはいないようなのだ。

馬韓人が辰王に重用されるのは、上の傍線部の経緯からいって納得はできる。つまり今でこそ辰韓王となった辰王の先祖は、馬韓の土地を分け与えてもらえなかったら滅亡し、今の辰韓はないのであり、そこに馬韓人に対する非常な恩義を感じているからだろう。

だが、「王と為るを得ず」という表現はかなり強く、あたかも馬韓人がしゃしゃり出て辰王に王座に就かせないようにしているかのような印象だが、馬韓人を宰相の地位に就けて実務を任せ、辰王自身は威風堂々と王座に座っていればいいだけの話ではないか。

そこでここの解釈だが、辰韓12国の王「辰王」は当時すでに辰韓国内にはおらず、朝鮮海峡を渡った九州島に王宮を移動させていた――と私は見るのだ。

では移動した先はどこだろうか。そこを私は多くの邪馬台国研究者が「伊都国」と比定する「糸島市(旧怡土郡)」とする。

この糸島市はもと「伊蘇国」であった。仲哀天皇紀と筑前国風土記逸文には、この怡土郡の豪族として「五十迹手(いそとて)」が登場し、天皇一行に対して恭順しつつ、まめまめしく働いたので天皇の激賞を得て「恪(いそ)しき男である。お前の国を伊蘇国としなさい」と言われ、伊蘇国となった。いま(記紀・風土記編集の時代)は「いとこく」と呼んで、転訛して(なまって)しまったが、これは誤りである――と書かれている。

さらに五十迹手(いそとて)はこうも言う。「私の祖先は半島の意呂(おろ)山に天下りました」と。つまり五十迹手の出身地は半島だったというのである。

「五十」を和風諡号に持つ天皇が二人いる。ひとりは崇神天皇、もう一人は皇子の垂仁天皇である。

崇神天皇の和風諡号は「ミマキイリヒコ五十瓊殖(いそにえ)」で、後半は「五十の地に瓊(玉=王権)を殖やした(拡大した)王」という意味である。

垂仁天皇の和風諡号は「イクメイリヒコ五十狭茅(いそさち)」で、後半の意味は「五十の地の狭小な茅屋で過ごした(生まれた)王」ととれる。

こう解釈すると崇神天皇こそが辰王であり、3世紀の魏志韓伝時代、すでに半島の南東部辰韓の王宮を捨て、海を渡って糸島に定着していたのかもしれない。また、垂仁天皇は崇神天皇が糸島に渡来した後に、狭小な王宮で生まれた可能性が考えられる。

多くの研究者はこの二人の和風諡号の前半部分だけを見て、「イリ王朝」だと論じ、畿内ではなくよそから入った(イリこんだ)王朝の始祖が崇神天皇である――とするのだが、後半部まで見て全体で解釈しなければ意味がないことを忘れている。


【資料年表】 韓半島の勢力の推移

紀元前 202 劉邦が漢王朝を建国
    194 燕から衛満が半島へ侵入し、北部朝鮮にいた朝鮮王「準」を追放
       準王は南朝鮮に移動し、「馬韓の東界」に入る
    108 漢が衛氏朝鮮を滅ぼし、四郡(真番・臨屯・楽浪・玄莵)を置く
    82  漢が四郡のうち、真番と臨屯を廃止
   (57  赫居世が新羅を建国)
    37  朱蒙が高句麗を建国
   (17  温祚が百済を建国
紀元後  8 王莽が新を建国(前漢が滅びる)
     23 王莽の死
     25 劉秀が後漢を建国(光武帝)
     57 倭の奴国王が後漢に朝貢(金印)
    107 倭国王帥升が後漢の安帝に貢献
    147~188 桓帝と霊帝の時代に、倭国で大乱。卑弥呼が共立
    204 公孫氏が自立し、半島に帯方郡を置く
    222 大陸は魏・呉・蜀の三国時代に入る
    238 魏が公孫氏を滅ぼし遼東を平定。半島は魏の支配下に入る
    246 三韓は魏に帰順する
    247 ※この頃、邪馬台国と狗奴国が交戦。帯方郡使が渡来
    248 ※卑弥呼の死
    265 魏で司馬炎が即位(晋王朝建国)
    266 倭の女王が晋に貢献する(邪馬台国女王・台与か)
    280 呉が晋に服属し、晋が中国を統一
    313 楽浪郡と帯方郡が滅び、半島は高句麗・百済・新羅の三国時代となる
    316 晋(西晋)が滅び、大陸は五胡十六国時代となる




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