昨日「霧島神宮の神殿のうち拝殿・幣殿・本殿が国宝に指定された」というニュースが流され、今朝は地元の新聞の一面トップにその記事が掲載された。
建造物としては鹿児島県では初の指定である。県にはもう一件の国宝があり、それは「国宗銘の太刀」だそうだが、その由緒など詳しくは分からない。
今度国宝に指定された神宮の拝殿・幣殿・本殿は江戸時代の鹿児島藩第5代藩主・吉貴(浄国公=島津氏第22代)が、正徳5(1715)年から10年ほどかけて造営させたもので、本殿の「龍柱」など装飾の豪華さと、琉球から大陸につながる東アジアの建築様式の精華をいかんなく発揮しているという。
さらに霧島神宮は、霧島山の裾野のなだらかな傾斜そのままを無理なく取り入れて建築されており、霧島山の持つ自然景観の中で、周囲との調和が見事にとれていることが、重要文化財から国宝へ昇格した理由だろう。
寺社建築の専門家は「霧島山と一体化した、国宝にふさわしい建物だ」と太鼓判を押している。
確かに霧島神宮の後背の霧島山麓のしたたる緑の中で一幅の絵のようで、見る者を森厳とさせるに十分だ。
正徳5(1715)年からの造営の前の神宮の建物の様子は残念ながら残されたものがないが、あるいは霧島市隼人町にある鹿児島神宮の姿に近いのかもしれない。鹿児島神宮は今回の指定で重要文化財になったが、それなりに高い技術で建てられてはいるが、霧島神宮のような「龍柱」を含む極彩色の装飾はさほど施されてはいない。
再建の途中で焼失してしまった沖縄の首里城の正殿の内部を見たことがあるが、あそこも極彩色の柱や欄間の彫刻は見事だった。おそらく薩摩が琉球を支配下に置いて、向こうには薩摩側の出先機関、本土には琉球館を置いて交流が進むにつれ、文化交流があり、大陸的、沖縄的な装飾様式が取り入れられたのだろう。
島津吉貴の時代は薩摩が「琉球征伐」を決行してちょうど100年目に当たっており、植民地的な支配とともに文化的支配(交流)はかなり進み、琉球様式が取り入れるのに十分な時間はあった。
【霧島神宮建立の謎】
今度国宝に指定された正徳5(1715)年に造営されたのは神社建築としての神殿だが、そもそも霧島神宮の起源がいつで、建立の経緯はどうだったのかについては謎である。
「いつなのか」については、鹿児島藩で幕末に記録奉行などを歴任した国学者五代秀堯と橋口兼柄が天保14年(1843)に編纂した『三国名勝図会』の「曽於郡之ニ」によれば、欽明天皇時代(540~571年)には存在したらしい。
霧島山の高千穂峰は天孫二ニギノミコトが降り立ったという伝承があり、その頂に何かしら祠のようなものが造立されていたのを欽明天皇の時代に高僧が祭るようになったのだという。高僧の名は慶胤上人といい、神宮の事務をつかさどる別当寺「霧島山錫杖院華林寺」の開祖である。
この説の出処は「華林寺」の開基記録によるもので、信用するしかないだろう。
「建立の経緯」については、霧島山の特殊性を考慮すべきである。
この霧島山への信仰は古くからのもので、生き物のように火を噴く火山連峰あることと、平地に水をもたらす水源であることとの両方で、殊に崇拝されていたから、おそらく平地で米作りが普遍的に開始された弥生時代までさかのぼると思われる。
雲を起こし雨を降らせ、水をもたらすだけでなく、火の恵もあるのが火山地帯の特徴である。直接的には温泉の湧出が恵みをもたらす。
しかし活火山であるから山頂付近で噴火が起これば、頂に祭ってある神祠は下へ下へと祭る場所を変えざるを得なかった。欽明天皇時代以降の巨大噴火では「延暦の大噴火(788年)」「文暦の大噴火(1234年)」「宝永の大噴火(1705年)」などがあり、その間の小噴火などは枚挙にいとまないほどあった。
この三大噴火の最後の宝永の大噴火が1705年で、この時代には現在の神宮のある場所にまで神社は降りて来ていたが、噴火によって大きな被害を受けたために藩主島津吉貴が「正徳5年の大造営」を施行した。その結果新装なったのが、今回国宝に指定された神殿である。
完成後300年が経過しているが、幸いに、今日まで大きな噴火には遭遇していない。
『三国名勝図会』によれば江戸期以前の正式な名称は「西御在所霧島六所大権現社」である。
「西」が冠せられているのは、都城側に「東(つま)霧島権現社」があり、この神社と区別するために「西」を付けたようである。
「六所」というのは、祭神が6座(柱)あるためで、正殿に4座(二ニギ・ホホデミ・ウガヤ・神武の皇孫4代)、及び東殿に1座、西殿に1座の合計6座の神霊を祭ることから名付けられたといい、また別の解釈として二ニギ夫婦・ホホデミ夫婦・ウガヤ夫婦の6柱を祭るからという説もあるという。
後の方の解釈のほうが、一見して了解しやすいが、いずれにしても天孫降臨のニニギノミコト以下、古日向に伝わる伝承の神々が祭られていることに変わりはない。
霊峰富士と並んで霊峰にふさわしいのが霧島連峰であり、特にその連邦の東端に聳える高千穂の峰だろう。この山こそがニニギノミコト降臨の山ということになっているが、現代科学からすればそれは有り得ない。
しかし弥生人は山を神々の宿る場所と考え、また父祖が死ぬとその山に還るという考えがあったことは否めず、山は天上界と地上世界との間の通路であったということだったのだろう。
赤子が天から降りて来る(授かる)とはよく言われることだが、天から降りて来るにしても、最も秀麗な姿をした「霊峰」は、皇孫のような高貴な赤子が降りて来るにふさわしいではないか。
霧島神宮の全景。一番高い屋根が本殿(神殿)。そこは山麓の傾斜地の一番上に建立されている。手前に移っている杉の巨木はおそらく当地に最初に神宮が建てられた当時の杉だろう。樹齢500年は下らない。
また神宮を取り囲むように杉の巨木が立ち並んでいるが、この姿こそが日本の神殿(神社建築+信仰)の持つ特徴である。
建造物としては鹿児島県では初の指定である。県にはもう一件の国宝があり、それは「国宗銘の太刀」だそうだが、その由緒など詳しくは分からない。
今度国宝に指定された神宮の拝殿・幣殿・本殿は江戸時代の鹿児島藩第5代藩主・吉貴(浄国公=島津氏第22代)が、正徳5(1715)年から10年ほどかけて造営させたもので、本殿の「龍柱」など装飾の豪華さと、琉球から大陸につながる東アジアの建築様式の精華をいかんなく発揮しているという。
さらに霧島神宮は、霧島山の裾野のなだらかな傾斜そのままを無理なく取り入れて建築されており、霧島山の持つ自然景観の中で、周囲との調和が見事にとれていることが、重要文化財から国宝へ昇格した理由だろう。
寺社建築の専門家は「霧島山と一体化した、国宝にふさわしい建物だ」と太鼓判を押している。
確かに霧島神宮の後背の霧島山麓のしたたる緑の中で一幅の絵のようで、見る者を森厳とさせるに十分だ。
正徳5(1715)年からの造営の前の神宮の建物の様子は残念ながら残されたものがないが、あるいは霧島市隼人町にある鹿児島神宮の姿に近いのかもしれない。鹿児島神宮は今回の指定で重要文化財になったが、それなりに高い技術で建てられてはいるが、霧島神宮のような「龍柱」を含む極彩色の装飾はさほど施されてはいない。
再建の途中で焼失してしまった沖縄の首里城の正殿の内部を見たことがあるが、あそこも極彩色の柱や欄間の彫刻は見事だった。おそらく薩摩が琉球を支配下に置いて、向こうには薩摩側の出先機関、本土には琉球館を置いて交流が進むにつれ、文化交流があり、大陸的、沖縄的な装飾様式が取り入れられたのだろう。
島津吉貴の時代は薩摩が「琉球征伐」を決行してちょうど100年目に当たっており、植民地的な支配とともに文化的支配(交流)はかなり進み、琉球様式が取り入れるのに十分な時間はあった。
【霧島神宮建立の謎】
今度国宝に指定された正徳5(1715)年に造営されたのは神社建築としての神殿だが、そもそも霧島神宮の起源がいつで、建立の経緯はどうだったのかについては謎である。
「いつなのか」については、鹿児島藩で幕末に記録奉行などを歴任した国学者五代秀堯と橋口兼柄が天保14年(1843)に編纂した『三国名勝図会』の「曽於郡之ニ」によれば、欽明天皇時代(540~571年)には存在したらしい。
霧島山の高千穂峰は天孫二ニギノミコトが降り立ったという伝承があり、その頂に何かしら祠のようなものが造立されていたのを欽明天皇の時代に高僧が祭るようになったのだという。高僧の名は慶胤上人といい、神宮の事務をつかさどる別当寺「霧島山錫杖院華林寺」の開祖である。
この説の出処は「華林寺」の開基記録によるもので、信用するしかないだろう。
「建立の経緯」については、霧島山の特殊性を考慮すべきである。
この霧島山への信仰は古くからのもので、生き物のように火を噴く火山連峰あることと、平地に水をもたらす水源であることとの両方で、殊に崇拝されていたから、おそらく平地で米作りが普遍的に開始された弥生時代までさかのぼると思われる。
雲を起こし雨を降らせ、水をもたらすだけでなく、火の恵もあるのが火山地帯の特徴である。直接的には温泉の湧出が恵みをもたらす。
しかし活火山であるから山頂付近で噴火が起これば、頂に祭ってある神祠は下へ下へと祭る場所を変えざるを得なかった。欽明天皇時代以降の巨大噴火では「延暦の大噴火(788年)」「文暦の大噴火(1234年)」「宝永の大噴火(1705年)」などがあり、その間の小噴火などは枚挙にいとまないほどあった。
この三大噴火の最後の宝永の大噴火が1705年で、この時代には現在の神宮のある場所にまで神社は降りて来ていたが、噴火によって大きな被害を受けたために藩主島津吉貴が「正徳5年の大造営」を施行した。その結果新装なったのが、今回国宝に指定された神殿である。
完成後300年が経過しているが、幸いに、今日まで大きな噴火には遭遇していない。
『三国名勝図会』によれば江戸期以前の正式な名称は「西御在所霧島六所大権現社」である。
「西」が冠せられているのは、都城側に「東(つま)霧島権現社」があり、この神社と区別するために「西」を付けたようである。
「六所」というのは、祭神が6座(柱)あるためで、正殿に4座(二ニギ・ホホデミ・ウガヤ・神武の皇孫4代)、及び東殿に1座、西殿に1座の合計6座の神霊を祭ることから名付けられたといい、また別の解釈として二ニギ夫婦・ホホデミ夫婦・ウガヤ夫婦の6柱を祭るからという説もあるという。
後の方の解釈のほうが、一見して了解しやすいが、いずれにしても天孫降臨のニニギノミコト以下、古日向に伝わる伝承の神々が祭られていることに変わりはない。
霊峰富士と並んで霊峰にふさわしいのが霧島連峰であり、特にその連邦の東端に聳える高千穂の峰だろう。この山こそがニニギノミコト降臨の山ということになっているが、現代科学からすればそれは有り得ない。
しかし弥生人は山を神々の宿る場所と考え、また父祖が死ぬとその山に還るという考えがあったことは否めず、山は天上界と地上世界との間の通路であったということだったのだろう。
赤子が天から降りて来る(授かる)とはよく言われることだが、天から降りて来るにしても、最も秀麗な姿をした「霊峰」は、皇孫のような高貴な赤子が降りて来るにふさわしいではないか。
霧島神宮の全景。一番高い屋根が本殿(神殿)。そこは山麓の傾斜地の一番上に建立されている。手前に移っている杉の巨木はおそらく当地に最初に神宮が建てられた当時の杉だろう。樹齢500年は下らない。
また神宮を取り囲むように杉の巨木が立ち並んでいるが、この姿こそが日本の神殿(神社建築+信仰)の持つ特徴である。
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