これまでに古日向(南九州)に存在した魏志倭人伝記載の投馬国の王は「ミミ」、女王は「ミミナリ」であったことを述べた。
この「ミミ」という特徴のある王名を私は「キミ(君)」の投馬国方言もしくは倭人伝記録者の転訛によるものかのどちらかと考えるのだが、記紀にはこの「ミミ」表記が数多く記されている。
以下に出典とともに示しておく(「記」は古事記、「紀」は日本書紀)。
1.タギシミミ(神武記・紀 綏靖紀)
2.キスミミ(神武記のみ)
3.ミシマノミゾクイミミ(神武紀)
4.カムヤイミミ(神武記・紀 綏靖紀)
5.カムヌナカワミミ(神武記・紀 綏靖記・紀 安寧紀)
6.イキシミミ(安寧紀 考昭紀)
7.スエツミミ(祟神記・紀)
8.フトミミ(垂仁紀)
9.トヨミミ(神功皇后紀)
10.クガミミ(垂仁紀)
11.オオミミ・タレミミ(肥前国風土記)
このうち「神武東征」に関する説話の中に出てくるのは1から5までの「ミミ」名の人物である。
記紀のストーリーによれば、以上の「ミミ」名の人物群は「神武東征」をめぐる人名であり、そのストーリーを箇条書きに示すと次のようである。
1タギシミミ
南九州の神武とアイラツヒメとの間に生まれた長子で、神武とともに「東征」に出た。
2キスミミ
キスミミはタギシミミの弟で、書記では記さないのだが、古事記の漢字表記「岐須美美」からその属性を考えると、「岐」は「くなど・みなと」の意味であるから「港の王」となり、「東征」には参加せずに南九州に残り、「航海民」の王として現地の支配を続けた。
4カムヤイミミ 5カムヌナカワミミ
神武とは実はタギシミミであったがゆえに、橿原王朝成立後にイスケヨリヒメとの間に生まれた皇子たちにも「ミミ」名を付けた。
橿原王朝2代目の漢風諡号「綏靖天皇」は第2皇子のカムヌナカワミミだが、初代の神武ことタギシミミはこの皇子に殺害されてしまうのだが、このストーリーは記紀編纂当時(7C末~8C初め)の南九州と大和王権の敵対関係が反映されている。
「王化(律令制化)に属さぬ」反抗極まりない古日向人(隼人)の祖先が大和王権の初代となったというのは認めがたいという論法で始祖であるタギシミミを抹殺したのだろう。
また日本書紀では南九州で生まれたアイラツヒメの二人の皇子タギシミミとキスミミのうちキスミミを省いているが、これも同じ論法で記載しなかったのだろう。
南九州(古日向)に残ったタギシミミの弟キスミミこそが「隼人の反乱」(720年~721年)の主人公「肝属難波(キモツキナニワ)」の先祖であるが、天孫降臨の5代目の子孫とは言え、大和王権に対して反旗を翻したがゆえに、キモツキナニワの先祖であるキスミミの存在自体を消し去ったのだ。
3ミシマノミゾクイミミ
3番目に挙げたミシマノミゾクイミミが後回しになったが、この人物を漢字で書くと「三嶋溝咋耳」となる。古事記では「耳」を省くのだが、ここでは日本書紀のほうを取り上げる。
ミゾクイ(溝咋)とは「ミゾ(溝)をクウ(咋)」の意で、水路を掘ったり浚えたりすることである。摂津の三島地方は淀川沿いの低湿地で、水田を拓くには導水路よりも排水路のほうを精確に造作しないと良田にはならない所である。
その土木工事を率いたのがミシマノミゾクイミミで、この人物の「ミミ」名が古日向投馬国由来のものかどうかは記紀ともに記していない。
しかし神武(タギシミミ)がその娘のタマクシヒメと事代主神との間に生まれたヒメタタライソスズヒメを娶って生まれたのがカムヤイミミとカムヌナカワミミであった。
ここで考えなければならないのが、もし以上の「神武東征」も「橿原王朝樹立」も造作であるのなら、いったいなぜ揃いも揃って「ミミ」名などという珍名を付けたのか――ということである。
造作するにしても程があろうに、全く意味不明な(古代史学者の解釈では「ミミとは美称に過ぎない」というのだ)「ミミ」名を付ける必要があったというのだろうか。
造作にしても大和生まれなら「大和彦」などと名付けるのが普通だろう。それもよりによって「カムヤイミミ」だの「カムヌナカワミミ」だの意味不明の「ミミ」名など付けないほうが当たり前ではないか。
私は南九州(古日向)に投馬国があったと比定してから、記紀の中で、南九州の天孫降臨説話の最後に登場する「神武」の皇子にタギシミミ・キスミミがおり、「東征」後に生まれた皇子にカムヤイミミ・カムヌナカワミミがいるという「ミミ」名のオンパレードを目にした時、南九州(古日向=投馬国)からの「東征」はあったと確信したのである。
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