鴨着く島

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古日向と吉備(2)

2024-01-29 09:24:08 | 古日向の謎

(※(1)より続く)

ウガヤフキアエズを祭る高野神社は、津山市内を流れる一級河川吉井川の流れに近い場所に建立されている。

神社の由緒によると、この川の流れの中にある「オノコロ石」に発祥するという。「オノコロ石」がどんな石なのかの詳細は書かれていないが、おそらく国生み神話の中の「オノゴロ島」からの転意だと思われる。

イザナギとイザナミがそこに降りて「ミト(夫婦)のマグワイ(交接)」をして、大八島国はじめ様々な神々(地上の自然や生物)を生み出したところが「オノゴロ島」であった。

ここに住み始めた人々がこのオノコロ石をオノゴロ島に見立てて「磐境」(いわさか=神聖な場所)として祭り、豊かな自然の中で開拓に取り組んだ証として社を建てたのだろう。

一般に神社はそこを開拓した初代の偉人を祭神とすることが多いものだが、この高野神社の祭神ウガヤフキアエズ命はそれには当てはまらない。

ウガヤフキアエズはあくまでも古日向に君臨していた人であり、その子に当たる神武天皇(私見では神武とアイラツヒメとの間に生まれたタギシミミ)が東征の途上、ここ吉備に高島宮を造営して8年滞在したことはあっても、ウガヤフキアエズその人が吉備にいたのではない。

それなのになぜウガヤフキアエズが祭神なのか。

岡山県神社庁のホームページによると、創建は安閑天皇の2年(534年)という古社である。

また同社は美作国の二宮であり、延喜式内社として国幣にあずかる大社でもあった。美作国が備中国から分離されて建国されたのは、何と大隅国が和銅6年(713年)に旧日向国から分離建国されたのと同時であった(『続日本紀』和銅6年4月3日条)。偶然の一致であろうが、興味ある史実である。

さて古日向に縁のあるウガヤフキアエズが、このような中国地方の山中と言える美作国の津山の高野神社に奉斎された経緯はどのようなものだったのだろうか。

まず言えることは、ウガヤフキアエズ命をあがめる(祭祀する)人々がいて、ここ津山に定住したがゆえに、祭り所として神社が建立されたということである。

どこからか――は、古日向からという他なく、「神武東征」の途上に吉備に8年も滞在している際に、神武の父に当たるウガヤフキアエズ命の御霊を祭祀したことに因んだ、と考えて不合理はないだろう。

最初の祭祀地は、当然、息子に当たる神武(私見ではタギシミミ)が8年間住んでいた「高島宮」であろう。この宮のあった場所は特定できないが、児島湾の周辺だと思われる。

神武東征を私は「古日向からの移住」と考えるので、中にはこの吉備の穏やかな土地に定住した者もいたに違いなく、この人たちが神武勢が畿内方面に更なる移動を開始したあとも吉備に残り、定住への取り組みを続けたのだろう。

倉敷市から岡山市にかけての遠浅な河川堆積地は肥沃で、火山性の堆積物(シラス)に覆われた古日向の開拓民にとっては夢のような土地であったに違いない。

しかし肥沃な土地であればあるほどそれを求める勢力は多かった。

 

 【吉備津彦の進出と古日向人への圧迫】

吉備に定住を始めた古日向人にとって最大の敵対勢力は北部九州の一大勢力「五十国」であり、糸島を皮切りに巨大化した崇神天皇の王統であった。この勢力が魏志倭人伝中の「大倭」である。

崇神天皇王統の「大倭」は、魏王朝が植民地化しようとしていた朝鮮半島情勢の緊迫化により、北部九州から安全地帯の畿内を目指した。この「東遷」こそが実の「東征」であり、武力による討伐を手段としていた。これを私は「崇神東征」と呼ぶ。

北部九州からの「崇神東征」は、古事記記載の20年近くかかった神武東征(移住)ではなく、日本書紀に記載の3年余りという短い期間で成し遂げられている。

いわゆる「神武東征」(私見ではタギシミミ率いる移住)の時代は2世紀(弥生時代後期)の半ばであり、崇神東征の時代はそれより120年ほど後の3世紀後半としてよい。

北部九州からの崇神東征も瀬戸内海経由であり、当然のこと吉備児島に長期間停泊して武器食料の補給基地としただろうが、吉備は単にそれだけの存在ではなかった。

吉備に定住していた古日向人は崇神船団が吉備にやって来た時に、すでに120年5世代ほども代を重ねており、かなりの勢力になっていたものと思われる。古日向系の吉備人は児島周辺に多くいたと考えて差し支えなく、中には非友好的な態度をあらわにする者もいたはずである。

武力討伐を辞さない崇神東征軍は、多くの吉備人を従えるのに成功した一方で、反抗する古日向系吉備人を討伐の対象にしたのかもしれない。

そのため古日向系吉備人は児島を捨てて吉備の内陸に移住避難した可能性が考えられる。

崇神東征軍団を率いていた最高指揮官と呼ばれるのが「五十狭芹彦(イソサセリヒコ)」であろう。第7代孝霊天皇の皇子で、「五十」は「イソ」と読むべきで、この人物が「五十(イソ)国」こと糸島由来であることを物語っている。

五十狭芹彦(イソサセリヒコ)は別名を「吉備津彦」という。

この別名は崇神東征の途上で吉備に停泊上陸したあと吉備の児島はじめのちの備前・備中までも掌中におさめたことに由来するのか、もしくは崇神軍団が畿内に入り、前王権の古日向由来の橿原王朝を倒し、崇神王権を樹立したのちに発遣した「四道将軍」の一人として吉備を平定したことに由来するのか、決定しがたい。

だが吉備という国は大国であるから一度の征伐ではなく、東征途上と崇神王権確立後の二回にわたる征伐によると考えるのが合理的だろう。(続く)

 


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