鴨着く島

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古日向と吉備(3)

2024-01-30 16:02:44 | 古日向の謎

(※(2)より続く)

 【大国吉備と大和王権】

吉備は国生み神話で「吉備児島」としてあらわれ、別名を「建日方別(たけひかたわけ)」と言ったが、その名称の由来は「建日別」こと古日向クマソ国に因んでおり、具体的には古日向からの神武東征(私見では神武の皇子とされているタギシミミによる移住)の途上で、吉備に定住した古日向人が吉備南部の児島地域に繁衍したが故だろうというのが、(1)の結論であった。

また児島地域からははるかに遠い旧美作国の津山市にウガヤフキアエズ命を祭る「高野神社」が建立されたのは、私が「崇神東征」と名付ける北部九州糸島を中心に勢力を伸ばした「五十(イソ)国」発祥の「大倭」による畿内大和への東征の途上、もしくは、畿内大和で先の古日向王権である橿原王朝を倒して崇神王権を樹立したのちに、「四道将軍」の一人である吉備津彦(五十狭芹彦)の征伐によって児島地域の古日向系吉備人が土地を追われ、北部の山岳地帯に落ち延びた結果だろうというのが、(2)の結論であった。

吉備は「真金吹く吉備」と謳われており、古来、製鉄の盛んな先進的な大国であった。もちろん土地の条件も良く、田畑は無論、瀬戸内海を擁した沿岸部では漁撈も船運も盛んであった。

ところで、吉備臣の始祖伝承としては上述の崇神王権由来の吉備津彦(五十狭芹彦)のほかに「稚武彦(わかたけひこ)」がいる(応神天皇紀22年条)。

この稚武彦も吉備津彦と同じく第7代孝霊天皇の皇子とされているが、私は疑問に感じている。

なぜならこの人の孫に当たる鴨別(かもわけ)が、神功皇后の命によってクマソ国を撃たせたところ「いまだいくばくも経ずして、自ずから服せり」(神功皇后摂政前紀3月条)とあり、鴨別がクマソ(古日向)と同根なればこそクマソも従順に従ったのだろうと思うからだ。

鴨別の「鴨」は「鴨着く島」でもある古日向の汎称であった。古日向系の吉備人の中に鴨を系譜のシンボル名とした族長がいて何ら不思議ではない。

この鴨別の兄弟に「御友別(みともわけ)」という人がおり、この人の子に「稲速別」「仲彦」「弟彦」がいて、それぞれ吉備下道臣、上道臣・香屋臣、三野臣の祖になっている(応神紀22年条)。

さて、この中の吉備下道臣の系譜に吉備下道臣「前津屋(さきつや)」がいた。時代は100年余り下って第21代雄略天皇の時である。前津屋が朝廷(天皇)を凌ごうかという勢力であった様子が分かる記事がある。

――朝廷に出仕していた吉備臣の一族「弓削部虚空(おおぞら)」が吉備に帰省してからなかなか戻ってこないのを不審に思った天皇は使いをやって連れ戻した。

戻った虚空は「前津屋は、小柄な女を天皇の代わりとし、大柄な女を自分に見立てて相撲を取らせ、小柄な女が勝つと殺してしまう。また小さな鶏を天皇の代わりとし、大きな鶏を自分に見立てて闘わせ、小さな鶏が勝つと殺してしまう」と天皇に讒言した。

これを聞いた天皇は物部の兵士30人を7吉備に向かわせ、前津屋及びその一族70人を誅殺させた(雄略紀7年8月条)――。

また同じ時期に吉備上道臣「田狭(たさ)」が自分の妻がいかに美人であるか自慢しているという噂を聞き、田狭を任那の国司に任命して半島に赴任させ、その妻を天皇が我が物にしたという(同上)。

このように雄略天皇は5世紀の後半当時、天皇家を凌ぐかと思われた吉備の勢力を削ぐことに腐心しており、こののち吉備は朝廷の傘下に入り、崇神王権のもとで吉備を攻略した英雄「吉備津彦」が吉備国の守護神となった。備前一宮「吉備津彦神社」、備中一宮「吉備津神社」はともに吉備津彦(祭神名は大吉備津彦)を祭って今日に至っている。

その一方で岡山県北部に位置する津山市の「高野神社」は、古日向からやって来て定住した古日向系吉備人の時代があったことを今に伝えている。

神社建立の時代を安閑天皇の2年(534年)としているが、下道臣前津屋が滅ぼされたのが雄略天皇7年で463年のことであるから、その時から70年後というそう遠くない時代に、古日向系吉備人が山間の津山に開拓に入ったことになる。

この古日向人の津山入りは前津屋の反乱との関係も考えられないことはないが、いずれにしても高野神社がウガヤフキアエズ命を祭神としていることは吉備と古日向との関係性を端的に表明している。(終わり)

 


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