鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

大王坂と大王平

2023-02-19 15:50:04 | おおすみの風景
【大王坂と大王平】

大隅半島の鹿屋市浜田町にはむかし「蘆ノ湊」と呼ばれた入り江があり、その入り江から東には「大王坂」と呼ばれる坂があり、それを登りきったところは「大王平」だったという。

「大王」という地名呼称はめったに使われるものではなく、いったいどうしてそのような謂れになったのか興味あるところである。


大王坂から見た大王平。ただし大王坂は今は新道になって自動車で上がれる広く緩やかな道になっている。昔からある大王坂は交通案内の道路標識の手前から左へ降りて行くくねくね道だ(細いながらも舗装はされているが)。

「大王」というからには相当な権力者がこの地区には居たのだろうという結論になる。

ただその由来についてこの地区に残る伝説はなく、大王という地名があるばかりである。

ひとつヒントになるのが入り江の最奥、大王坂の麓に鎮座する「玖玉(くだま)神社」の存在だ。


入り江の奥と言っても、入り江は今は浜田田んぼになっており、その田んぼの奥(北側)に神社はあり、あたかも田んぼ地帯を見守っているかのような位置にある。

以上に挙げた「蘆ノ湊」「大王平」「玖玉神社」の位置関係を示す古地図が見つかったので、それを次に示しておく。


これは明治36年に測量され発行されたた5万分の一地図である。明治36年の段階では私の言う「入り江」はすべて田んぼになっている。おそらく江戸時代以降に坂元から玖玉神社までのおよそ30町歩ほどが田んぼ地帯に生まれ変わったのだろう。

「蘆ノ湊」とはこの入り江全体を含めて言われたのだろうが、江戸期以降はこの地図では「濱田」と書かれた海浜部のみが船溜まりになっていたものと思われる。そこは濱田の南の「竹之崎」から伸びて来た砂嘴と、この地図では見えないが北の高須からの砂浜の開口部であった。

その蘆ノ湊から比高で20mほどの丘を東に越えたところにあるのが玖玉神社である。道はこの神社の鳥居のすぐ下(南側)を通過してそのままさらに東に上って行くと比高で約80m地点にやや平らになったところに到達する(赤い斜め線が引いてある)。そこが「大王平」になる。

大王平は今は瀬筒峠と呼ばれるが、それはさらに東へ降りて行った所の瀬筒集落から付けられた名称だろう。

この大王平(瀬筒峠)の特色は何と言っても「分水嶺」だということである。

瀬筒峠から北はせいぜい標高150mほどの霧島が丘と呼ばれる丘で、そこから流れ出る川は皆無だが、南側は標高450mに達する横尾山系につながっており、大姶良川の源流が涌き出している。大姶良川は東から北東に流れて大隅半島の一級河川である肝属川に流れ込み、大隅半島の東部に位置する東串良町の柏原海岸部から太平洋にそそいでいる(約30キロ)。

大王平(瀬筒峠)は西側の海である錦江湾(鹿児島湾)から直線にして1キロ半にも満たない距離にありながら、その東側から流れ出る川は錦江湾とは真反対の太平洋につながっているという奇観を呈しているのだ。

峠から東側の瀬筒地区は水量は少ないながらも流れ出る川によって古くから田んぼが作られて来たし、さらに東の大姶良地区は数本の河川の水に支えられてこっちも古くからの田んぼ地帯であった(鎌倉時代に鹿児島の島津氏が大姶良に拠点を設け、大隅支配に乗り出しているのもむべなるかなである。島津氏の第6代の元久は大姶良城で生まれている)。

【蘆ノ湊と玖玉神社】

蘆ノ湊というと「海岸部に蘆(あし)草がよく茂った湊(みなと)」というイメージだが、私は「あし」を「あじ」の転訛と考えている。「あじ」とは「味鴨」(あじかも)のことで、要するに「鴨」であり、舟人を鴨になぞらえ、舟人が多く集まっていることを表した名称だと思うのである。

そのことは実はすでに何度も「鹿児島」という地名自身が、「鴨着く島」から「水主(かこ=船手)の島」になり「鹿児島」になったと説明して来た(※応神天皇の時代に日向から髪長姫を朝廷に差し出す際、瀬戸内海を船でやって来た日向の舟人の姿を見て「鹿が海を渡ってきた」と驚かれた。さらにその船が係留した港を「かこの湊」と呼んだため、そこが「加古」という地名になった。現在の兵庫県加古川市の地名由来だが、舟人を「かこ」と呼ぶのは珍しくなかったことを表明している。)

その由来を持つ浜田の「蘆ノ湊」の蘆(=舟人)大いに関係ありそうなのが、玖玉神社である。

この神社の祭神は「猿田彦(さるたひこ)神」と「塩土翁(しおつちのおじ)」。「くだま神社」は一般的には鹿児島ではよくある「九玉神社」のことなのだが、「九玉神社」の方は祭神は猿田彦だけで、ここの「くだま神社」にはさらに塩土翁が加わっている。

先に猿田彦神の方を説明すれば、この神はニニギノミコトの「天孫降臨」の時に、アメノヤチマタ(分岐路)で降臨を待ち、国土を道案内した国つ神で、言わば陸上交通の案内人であった。

これに対して塩土翁は「神武東征」の際に海の潮路を案内した海上交通(水先)の案内人なのである。

どちらも同じ案内者の役割を担った神々であるから、両方とも祭ればなおよかろう、ということからこの玖玉神社では二柱の神々を祭神としたと思われるが、私は他の九玉神社にはない塩土翁を祭ったことに歴史的な意味を感じるのである。

やはりそれは蘆ノ湊との関連で、塩土翁の方こそがこの神社の本来の祭神だろう。要するにこの浜田(蘆ノ湊)には「大王」しかも海運に長けた大王が勢力を張っていたのだろう。

それがいつの時代かは軽々には言えないが、浜田ではかつて北部九州との関係を示す前期の弥生式土器が出土しており、少なくとも弥生時代には鹿児島湾岸における海運の一つの拠点的な港と集落があったに違いない。

その大王の館は現在の玖玉神社のある場所か少し後背の高みにあった可能性が考えられよう。そして神社の前の道から東へ大王坂を上り切った見晴らしの良い大王平には防衛的な施設を置いていたのかもしれない。またそこには、さらに東の大姶良地区で採れる米を確保しておく保倉のようなものがあったとも考えられる。

いずれにしても蘆ノ湊に鎮座する玖玉神社に海運に長けた塩土翁が祭られるのは全く違和感はないと言える。

(※昭和の初期に大隅地区選出の国会議員が、この浜田から東へ大王平の台地を開削して運河を造り、肝属川と繋げて志布志湾(太平洋)へ船が抜けられるような大運河プランを打ち上げたことがあったそうだが、地元民は「そんなことをしたら我々の地方は国土から切り離されてしまうではないか」と猛反発し、日の目を見なかったそうである。もし現実化していたら、さして海運には役に立たなかったろうが、観光性は佐多岬以上にあったかもしれない。)(

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