鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

2度のハイセン

2023-02-22 18:36:30 | おおすみの風景
ついに見つけた!

何を見つけたかというと、ご当地ソングの女王水森かおりが大隅を唄った歌である。

そのタイトルはずばり「大隅半島」。

去年の9月に21番目の「歌紀行」を発売したのだが、その中の一曲だった。

水森かおりのご当地ソングでは日本全国の名所のみならず、歴史を感じさせる歌詞が多いのだが、鹿児島を唄った歌としてはすでにかなり前に「ひとり薩摩路」というのがあり、当地では結構唄われている。

今度の「大隅半島」の歌詞を次に挙げてみよう。

【大隅半島】(作詞・作曲 伊藤薫)

一 風は潮風 佐多岬 
  髪が乱れる 身体が凍る
  時の流れと こぼれた水は 
  どんなに待っても 戻りはしない
  大隅半島 愛は 愛は冷えました
  夢も希望も 未来も連れて

二 潮の香りの 志布志湾 
  駅の向こうで 線路が果てる
  同じ歩幅で 歩いたはずが
  気付けば隣に あなたがいない
  大隅半島 愛が 愛が見えません
  一人きりでは 明日も迷子

三 霧の向こうに 桜島
  時に雄々しく 優しく強く
  言葉少なで 静かな笑顔
  浮かんで消えては 涙がにじむ
  大隅半島 愛は 愛はどこにある
  誰かお願い 教えて欲しい

「ひとり薩摩路」が本当は二人で歩く約束だった薩摩の春を、ひとり悄然と行く哀しさを唄った歌であるが、それに比べると、この「大隅半島」は彼氏と付き合ったのかもどうか分からないまま、いたずらに「愛は冷えました」「愛は見えません」「愛はどこにある」と一方的に言い募っている。

特に2番の「気付けば隣にあなたがいない」という下りは、チコちゃんならずとも「ぼーっと生きてんじゃねーよ」と言いたくなる。

それほど彼氏への愛に対する印象が薄く、まるで大隅(半島)には愛が無いかのような内容の歌なのだ。

おまけにご当地ソング特有の地名の歌い込みだが、この歌では「佐多岬」「志布志湾」「桜島」の3つだけで、「ひとり薩摩路」が「出水の鶴の里」「枕崎」「指宿」「鹿児島」「桜島」と五つも入っているのと比べても遜色がある。

大隅半島の最大の都市「鹿屋」も神武天皇の父とされるウガヤフキアエズの御陵「吾平山上陵」も出てこない。

作詞作曲の伊藤薫という人は作詞するにあたって大隅についてかなり調べたことだろうことと思うが、結局印象的なものが少なかったに違いない。

そのことを示唆するのがやはり2番の中の「駅の向こうで 線路が果てる」ではないか。

要するに大隅半島は広いにもかかわらず、志布志駅から向こうには鉄道が無いということ、そのことに作詞者は唖然としたというか首を傾げたのではないだろうか。

大隅半島という本土最南部の果ての比較的面積の広い地域に鉄路が果てているという二重の意味で「果てている」姿に、「愛も果てている」を重ねたのだろう。

大隅半島には昭和62年3月まで「大隅線」という総延長98キロの国鉄が走っていた。初発の軽便鉄道からたどれば約70年の歴史を有する鉄道である。しかし国鉄民営化の国策にはあらがえず、不採算の鉄路は軒並み「廃線」となった。

大隅地方の住民は誰もそれを喜ばなかった。特に高校通学の生徒は困り果てたのだ。

作詞者の伊藤薫という人は、もしかしたら当地に取材に来て大隅線の「廃線」をいまだに残念に思っている人に出会い、そのことを念頭に置いて作詞したのかもしれない。

さて、大隅ではもう一つのハイセンがあった。

それは太平洋戦争における「敗戦」である。

鹿屋は当時「軍都」だった。実は真珠湾攻撃の訓練に鹿児島湾が使われたそうである。

さらに特攻隊出撃基地としても鹿屋海軍航空隊が突出して使用されている。その数930名余りで、一つの基地としては全国でも最大規模であった。

1945年8月15日の昭和天皇による「終戦の詔」放送の後、翌9月2日には米軍が鹿屋の金ノ浜に上陸し、鹿屋基地を占領した。戦争終結後に米軍が上陸して日本軍の基地を接収したのは鹿屋が最初だった。

昭和20年のハイセン(敗戦)と昭和62年のハイセン(廃線)、大隅の鹿屋はこれら2度のハイセンによって二度打ちのめされたのであった。




  
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