古日向とは和銅年間に薩摩国・大隅国が分離建国される前の「日向」のことで、今日は日向と聞くと「ああ宮崎県だけのことだ」となるが、これは誤りである。それ以前の「日向」は鹿児島県域も含んでいた。
私はこの奈良時代以前の(令制国制確立前の)日向を「古日向」と呼んで区別している。
記紀に天孫降臨神話つまり「日向神話」が書かれているが、この場合の日向は「古日向」でなければならない。したがって神話学などで使う「日向神話」は「古日向神話」とすべきだと考えている。
この古日向域はほぼ今日でも使われる「南九州」と重なる(ただし奄美トカラ等の南西諸島は入っていない)。
この古日向人が奈良時代を迎える直前の天武天皇・持統天皇時代には「隼人」として異族扱いを受けることになった。
その理由は簡単に言えば、天武天皇時代の特殊性に基づいている。
斉明天皇(女帝)の時に倭国は唐・新羅連合軍に敗れそうになった百済を支援しようと、上毛野稚子(かみつけのわくご)などの陸将率いる支援部隊2万7千名を派遣し、さらに水軍400隻を送り海路から支援を送った。
この海戦時の水軍が誰の指揮下にあったのか、どこの水軍が参加したのか、具体的な記述はなく、白村江の海戦で唐軍の大きな楼船による攻撃の前になす術もなく完敗してしまった。
この水軍はおそらく九州の部隊であり、北部の宗像水軍、松浦水軍などに加えて南の古日向域からも出陣したと思われる。
天智天皇がまだ中大兄皇子時代に母の斉明天皇に従って九州朝倉の本営にやって来ていたが、どうやら古日向にまで足を伸ばしていたことが、国分台明寺の「青葉の笛」伝承などでもうかがえるのだが、この古日向訪問は現地のつまり古日向水軍の出動要請のためだと考えられるからである。
ところが白村江の海戦で完膚なきまでにやられ、ほとんどの将兵や船を失ってしまったのだ。400隻にどれほどの将兵や水主(漕ぎ手)がいたものか、おそらく万をはるかに超える数であったに違いない。
かくて倭国は百済の立て直しも空しく敗戦の憂き目を見たのであった。特に九州地方の海民の損害は甚大で、敗戦後の九州は筑紫に唐軍による「筑紫都督府」が置かれ、占領政策に従うことになった打撃は大きい。
古日向域も例外ではなく、多数の子弟(健児)を失ったに違いない。戦費(軍事物資・船舶・食料)などの負担も重くのしかかったであろう。
倭国が一番恐れたのが、倭国の王権すなわち天皇の制度が廃絶されることだった。
唐からの使いが四度も倭国王権に迫る文書をもたらし、その中には天皇を戦犯処理するというような内容もあったと考えられる。
特に斉明天皇の死後に実権を握り、唐・新羅連合軍との陸戦海戦の実質上の指揮者であった中大兄皇子(のちの天智天皇)の天皇継承までの不可解な記述はそのことを考慮したほうがいいように思われるのだ。
結局、天智天皇は失意のうちに崩御し、あとを継いだのは天武天皇であったが、その継承の前に「壬申の乱」が起きて天智天皇の直系・大友皇子は殺害されている。
天武天皇が天智天皇と同じ斉明女帝の皇子であったというのは疑わしく、私は天智天皇がその死の間際に中臣鎌足に最高位の大織冠を授け、さらに「藤原姓」を賜与したのは、藤原氏に後継を託したことをほのめかしていると考えた。
そして藤原氏となった鎌足の長男で、遣唐使の一員として唐に渡って仏教等を修めた中臣改め藤原定恵(貞慧)こそが天武天皇として即位した可能性が高いと考えている。
唐王朝側としても中国語に精通し、仏教はじめ儒教などにも教養を深めた人物ならコントロールしやすいと推したのではないだろうか。
天武天皇は唐による占領政策には危機感を持ち、倭国(日本)を唐の政治制度である「律令制」を取り入れ、日本列島限定の中央集権国家を目指した。
この律令制と仏教受容によるスマート国家を創るべく腐心した挙句に起きたのが、古日向との軋轢であった。
白村江の敗戦以後、元気をなくし、かつ律令制及び仏教の普及に難色を示したのが古日向で、天武王権は度々使節を送って日本という国の境を調査し始め、原住民の上京を命じて懐柔を図った。
この時点で天武王権は列島の国土をひとかたまりと考え、そこに「四神相応思想」を適用した。北を守る玄武、南を守る朱雀、東を守る青龍、西を守る白虎がそれで、国土の四辺をそれぞれの聖獣が守ってくれるという考えである。
このうち南の守り神は朱雀(すざく)であった。古日向人にはこの朱雀を適用すべきであったが、「雀」と言えば古代の聖王と言われる第16代仁徳天皇の和風諡号の「大雀命」(おおさざきのみこと)に既に使われていた。
そこで「朱雀」を遠慮し、その代わり古日向人の身のこなしが「剽悍=すばしこい」であることから同じ鳥でも「隼」(はやぶさ)を取り入れたものと思われる。
古日向人が自ら「俺たちは隼人だ」と言ったのではなく、王権側が名付けた名称であったのである。
※文献上その嚆矢は、天孫降臨神話(古日向神話)に見える「(ニニギノミコトの次男の)ホスセリノミコト。これは隼人の祖。」であり、その後は第17代履中天皇の時代に住吉仲皇子に仕えていたソバカリ(書紀ではサシヒレ)という個人名を持った隼人や、第21代雄略天皇の葬儀の際に弔問した隼人などが登場するが、これらは天武時代に名称化された隼人をさかのぼって繰り入れたものだ。