鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

古日向と吉備(1)

2024-01-28 18:38:39 | 古日向の謎

先日、「古日向人とクマソ」(1)~(3)というテーマで、おおよそ

「古日向とは現在の鹿児島県と宮崎県を併せた領域であり、景行天皇のクマソ征伐から仲哀天皇の后・神功皇后の新羅征伐まで、わずか30年余りの時代にクマソの国と言われたに過ぎなかった。

白村江の海戦で倭軍が完敗したのち、天武天皇時代に列島限定の中央集権的な国家統治が急がれた際に採用された「律令制」と「仏教の国教化」が古日向にとっては受け入れがたい施策だったため、古日向人が反旗を翻した。

大和中心の中央集権の思想の中に東西南北の四方を守るとされた青龍・白虎・朱雀・玄武(亀)のうち、古日向人は南に住んでいたため「朱雀」があてがわれたのだが、「雀」は仁徳天皇の和名「大雀(オオサザキ)」を犯すため敬遠され、代わりに「隼」が選ばれて、古日向人の蔑称となった。

平城京には「隼人司」が置かれ、はるばる古日向から「隼人」が上番するようになった。隼人の「吠声(ベイセイ)」(犬の遠吠え)は魔を打ち払う霊力があるとされ、次第に古日向人への蔑視は少なくなって行った。

鹿児島藩が明治維新で長州藩・土佐藩・佐賀藩と共に立役者となってから、「隼人」は蔑称どころか敬称になって今日まで続いている」

と書いた。

一般に「クマソ」は熊襲というおどろおどろしい漢字が使われているため、本居宣長の『古事記伝』いらい「未開な、野蛮な」というイメージが定着してきたが、私は「熊」を「能+火」と捉え、「火を能く扱う、火をうまくコントロールする」と解釈して来た。

この「熊=火をうまくコントロールする」とは、古日向域に顕著な火山活動を念頭に置いての成語で、数知れぬ火山噴火や降灰を受けながらも逞しく生きて来た古日向人の属性をよくとらえたものと考える。

そして、カグツチ(輝く土=溶岩)の出産によってイザナミノミコトが焼けただれて死んだことや、古日向のクシフルタケに降臨したニニギノミコトが阿多の笠沙で出会ったカムアタツヒメ(別名コノハナサクヤヒメ)が出産する時に「産屋に火をつけ、その中で三皇子を無事に産み落とした」様子は、古日向の出来事として実に整合性を得ていると思う。

 

 【古日向と「建日別」及び「建日方別」】

古日向は古事記の国生み神話によると、クマソ国であり別名が「建日別」であった。

建日別という漢字の「建」は、あの長命だったという成務天皇から仁徳天皇の時代まで仕えた「武内宿祢」を古事記では「建内宿祢」と書くように、「建」は「武」でもあった。「武」とは武力の「武」であり、「猛々しい」というイメージが強い。

したがって「建日」とは「武日」であり、「猛々しい日」ということである。これは列島の最南端の気候風土を如実に表している。クマソ国である古日向が「建日別」と名付けられたことに全く違和感はない。

これに加えて「日」はまた「火」でもあるから、火山活動の猛々しさをも表現しており、古日向(クマソ国)の属性をよく捉えていると感心せざるを得ない。

ところで、古事記ではこの「建日」を使った国(島)が他にある。

それは吉備児島である。古事記には「(大八島を生み終えたのち)還ります時、吉備児島を生みき。またの名は建日方別という」とある。

吉備とは今日の岡山県で例の桃太郎の伝説で有名だが、吉備児島は岡山県でも南部の地域で倉敷から岡山市にかけての海沿いの一帯を指している。児島という街が下津井半島の根元にあるのでそこだけに限定しがちだが、児島湾干拓で著名な児島湾と児島半島は岡山市に近い。

また倉敷市と岡山市の間の広大な平野部に「松島」「早島」「簑島」という地名があり、かつてはその平野部も海中だったようである。

いずれにしても当時の吉備児島こと「建日方別」は広大な地域であった。

この「建日方別」と「建日別」との関係を考察してみよう。

建日までは同じだが、「方」とはどんな意味だろうか。

これは「地方」という言葉があるように、建日の「地方」という意味だろう。要するに「建日別の分国」ということである。

建日別(クマソ国)の分国がなぜ岡山県の南部にあったのか?

それは古日向からのいわゆる「神武東征」があったからである。東征の途上で神武一行は「吉備の高島」に宮殿を造り、そこに8年という長い歳月を送ったのであった。

岡山県南部は中国山地から瀬戸内海に向かって南流する3つの大きな川(吉井川・旭川・高梁川)によって海岸部の堆積が進んでいたから、広大な干潟があった。古日向を出発した東征船団にとって願ってもない開拓地になったに違いない。

私は古日向(クマソ国)からの「神武東征」は史実だと考えるのだが、その東征の中身は実は「移住」ではなかったかと思っている。

弥生時代の後期(1世紀~2世紀)に古日向域では活発な火山活動などの大規模災害があり、ようやく米作りが軌道に乗ろうかという矢先に降灰などによって不可能となるような事態が発生したための移住ではないかと考えるのである。(※東九州自動車道建設前の発掘調査で、弥生後期の遺跡・遺物が極端に少ないことが分かっている。)

ここ吉備の児島が「建日方別)(建日別の分国)という名称なのは、ここ吉備に定住した多くの古日向人がいたためではないだろうか。その一つの証左になるかもしれない神社が津山市にある。

 

 【ウガヤフキアエズを祭る高野神社】

先年、岡山県北の美作地方の中心都市である津山市を訪れた時、「大隅神社」というのがあるのに驚いたのだった。

調べてみるとそこに祭られているのは「豊手」という人物で、彼は出雲の「天日隅宮」(出雲大社)を美作に勧請し、開拓のシンボルとしたという。

私は「大隅神社」というからには大隅国関係の祭神が祭られているのかもしれないと期待したのだが、「隅」は「隅」でも「日隅宮」の「隅」だったのでややがっかりした。ところが同じ市内の美作国二宮と言われる「高野神社」を訪れて、びっくりしてしまった。

何と高野神社の祭神は「ウガヤフキアエズ命」だったのである。記紀によればまさに神武天皇の父に当たる。

なぜまたこんな山奥(中国山地の中ほど)に古日向に由緒のあるウガヤフキアエズが祭神として崇敬されているのだろうか?(続く)