鴨着く島

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「人への分配はコストではなく、投資である」

2021-12-10 15:05:23 | 日本の時事風景
岸田新総理大臣の所信表明演説の中ではいくつかの名文句・成語が要所要所に使われた。

その中で持論の「新しい資本主義」を説明した中の「分配」について語る枕に使われたのが、タイトルの「人への分配はコストではなく、未来への投資である」というのが一番印象に残った。

寡聞にしてこの文言の出所を知らないのだが、これはその通りだと思った。

首相としては企業の経営者への要望としてこれを使ったのだろう。儲け(利益)に応じ、働く者に応分の分け前を与えてほしいというのだが、当たり前と言えば当たり前のことだ。

株主優先でそっちに利益を持って行かれては、企業が成り立たない。株主も「人」には違いないが、株主が企業を食い物にしたら本末転倒だ。

「強欲資本主義」とも言われる「金主(きんしゅ)主義」の時代は分断を生み過ぎた。早く資本主義の原点に戻るべきだ。(※「金主主義」を「金本位(かねほんい)主義」とも言ってよいが、これを「キンホンイ主義」と読むと通貨制度の話になってしまうので使わない。)

資本主義の原点は「人・機械(道具)・土地建物」への投資によって、社会的に有意義な仕事を生み出すことだ。金が金を生むような「金主主義」では実業は成り立たない。

人は金を持ってあの世には行けない。断捨離の第一歩は金への執着を離れることだ。

人は金を持ってこの世に生まれるわけではない。

(※もっとも、石を手に持ってこの世に生まれた人はいる。

四国八十八霊場の何番目か覚えていないが、「石手寺」というお寺は、生前、弘法大師を邪険に扱ってしまった男がこの世を去るときに、生まれ変わったら弘法大師を祀る寺を建てたいと念じ、「お産の時に手の中に石を握った赤子がいたら俺だよ」と遺言したそうだ。

ほどなくして本当に石を手に握った子が生まれ、その子が成長の後に建立した寺を「石手寺」と名付け、弘法大師を祀る霊場の何番目かにランクインしている。執念と言えば執念だ。もし「金を持って」と念じたらそうなるのかは、やったことがないから分からない。)

人は何にも持たずにまさに「素っ裸」で生まれてくる。そして最初に与えられるのが「おっぱい」だ。

おっぱい無くして何人も育つことはできない。おっぱいこそが最初の「分配」である。そしてまた、それこそが生長(未来)への投資だ。

しかも母親は「おっぱい代」を取らない。「コスト」という観念はなく、赤ん坊の要求に応じて何度でも無料で与える。それは子の成長を促すと信じているからだ。まさに「未来への投資」そのものである。

近年は「出産はしたくない。なぜなら将来、子供の教育に金がかかるからだ」というコスト観念に囚われた亡者が多くなった。「金主主義」に感染してしまったのだ。これが少子化の最大の要因だ。

発展途上国のベトナムとか南アフリカなどでは、国民の平均年齢が20代後半だそうだ。若者がわんさかいるのだろう。

それに比べ、今や日本は女性の平均年齢が50歳を超えている。少子化に加えて女性の顕著な高齢化(長寿命化)がそうさせているのだが、団塊世代にとってはかつての「町中子どもだらけ」の風景が懐かしく思い出されてならない。

今度の岸田新総理の所信表明で残念な点が一つある。

それは「首都移転」について何ら考慮していないことである。少なくとも省庁の移転には言及してほしかった。

「デジタル田園都市国家構想」との文言は有るが、もともとあった「田園都市構想」に「デジタル」を冠したのだが、これは似て非なるものだ。

なぜなら新型コロナ下で推進されたように「リモート会議」がデジタル化によって加速されれば、結局「地方に移さずともリモートワークができるじゃないか」と誤断され、地方分散の核である「首都圏分散・省庁の移転」がおろそかになってしまう可能性が大きい。

去年の「緊急事態宣言発出」のあとのブログに書いたのだが、コロナ対策に30兆とか50兆とか使う予算があるなら、せめて20兆もあれば首都分散化の道筋がつくのだ。

東京圏一極集中のままでは、いざ大災害(主要因は地震)という時に、取り返しのつかない災害規模に陥り、まさに国難を招くに違いない。

またしても、後手後手に回っているような気がしてならない。

大阪を本拠地とする日本維新の会は今度の選挙で大幅に勢力を伸ばした。彼らはかつて大阪都構想をぶち上げている。ならば首都圏分散の受け皿として政府に強く要請すべきだろう。