鴨着く島

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物部氏の没落と仏教の興隆(記紀点描㊱)

2021-12-26 09:23:04 | 記紀点描
【物部氏の没落】

敏達天皇(在位572~585年)が崩御してその余韻冷めやらぬ次代の用明天皇(在位586~587年)の2年(587年)、再び仏教論争が熾烈になり、今度は力づくの闘争となった。

まず排仏派の重鎮の一人中臣勝海が、蘇我馬子大臣の舎人によって殺害された。さらに馬子は、物部守屋大連が天皇に擁立しようとした穴穂部皇子をも殺害する。

そしていよいよ物部守屋との戦争が始まる。河内の守屋の屋敷(現大阪府八尾市)に押し寄せた馬子部隊に中に、若き甥っ子厩戸皇子(聖徳太子)がいた。かれは四天王に願をかけ、「もしわが陣営が勝利したならば、四天王護国寺を建立する」と祈った。

それかあらぬか、馬子軍は物部守屋を殺害し、一族を捕らえることに成功した(用明天皇2年7月)。

この時、守屋側の将軍「鳥取部萬(よろず)」が奮戦をして超人的な働きをしたが殺害され、飼っていた大きな白い犬が萬の死骸の傍らを離れずに守り、ついに餓死した――という悲話があり、八つ裂きの刑に処せられるべきところを変更して犬ともども丁重に葬ることが許されたという。血生臭い戦いの中の、心温まるエピソードだ。

(※物部守屋一族は多く四天王寺建立後にその下僕として抱えられたらしいが、中には各地に逃げおおせた一群もいたようである。)

【仏道の始まりは女性たちから】

聖徳太子は誕生に奇瑞があったり、「10人の話を一度に聴き分けることができた」などという伝説があるうえ、仏教経典の解釈に非常に秀でており、余りにも出来過ぎているというのでその実在を疑う論調もあるのだが、潤色を拭い去れば、このような若き学識者が生まれておかしくない時代状況でもあったのだ。

というのは、百済から最初に仏具と仏像(釈迦仏)が到来したのは欽明天皇(在位540~571年)の13年(552年)であったが、蘇我稲目がその仏を祭って日本最初の仏堂を建立しているからである。聖徳太子はその稲目の孫に当たり、稲目という祖父と馬子という伯父の薫陶を受けるに十分な環境に育っているのだ。幼い時から仏典に親しむ機会は十分にあった。

敏達天皇の13年(584年)には、百済から再び仏像の伝来があった。今度のは弥勒仏であったが、敏達天皇は神と仏の狭間に立たされて困惑しつつ、その弥勒仏を馬子に託した。

馬子は播磨で還俗していた高句麗出身の僧・恵便を招き、部下の娘を出家させて「善信尼」とし、さらに二名の「禅蔵尼」「恵善尼」を得た。そして自分の屋敷の一角に弥勒仏を安置した仏殿を建て、そこで三人の尼による「大会(だいえ)」を催している。

これを見ると、「仏教学」というべき経典の解釈については聖徳太子のような男子が担ったが、礼拝を中心とする「仏道」は女が担っていたことが分かる。

しかも、この善信尼は3年後の敏達天皇16年(587年)6月に、次のように馬子に請願しているのである。

<善信尼ら、(蘇我馬子)大臣に謂いて曰く。「出家の途は戒(いまし)むことを以て本とす。願わくば、百済に向かひて、戒むことの法(のり)を学び受けん」といふ。>

馬子の建立した仏殿で仏を礼拝していた善信尼ら三人の尼は、さらなる戒律を学ぶために百済に行きたいと願い出たのであった。

しかし当時は排仏派の物部守屋との戦いが迫っており、すぐには実行できなかった。翌年(588年)に百済から「仏舎利」とともに僧侶3名と寺大工、画工などが渡来したので、引率者の恩率(オンソツ=百済の王族)首信の帰国船に便乗して百済に渡ったのであった。これは遣唐使時代の「留学僧」の先駆けであり、日本最初の「留学生」といってよい。

また、2年後の崇峻天皇3年(600年)には、大伴狭手彦の娘、大伴狛の夫人、新羅媛善妙、百済媛妙光など10ほどの女たちが出家している。軍事氏族の雄である大伴氏の娘や奥方が交っているのは、仏教の教理もだが、漢文である経典の持つ「先進性・文化性」が求められる時代の流れを象徴しているのではないだろうか。

以上から言えることは、日本における仏道(仏教修行・勤行)は女姓たちから始まったということである。遣唐使以降の留学僧たちがすべて男性であるのとは全く一線を画している。

禅宗や密教が特にそうだが、中世になると「女人禁制」「女は不浄」「浮かばれない」と言われるようになる。その挙句、仏道から女が姿を消すのだが、初期の仏教受容ではむしろ女がその中心だったのである。

これは在来の「神道」においても同様で、邪馬台国の女王ヒミコはその典型と言える。「鬼道を能くして衆を惑わす」と魏志倭人伝にあるように、祖霊・祖神を祭るのは女性の役割であった。伊勢神宮祭祀でも担当したのは斎宮で、斎主は天皇の皇女が就任していた。

また、私見の投馬(つま)国は南九州古日向にあったが、国王(官)「彌彌(ミミ)」の女王(副官)を「彌彌那利(ミミナリ)」と言った。「ナリ」は「妻」の意味であり、このミミナリは後世の琉球王朝の「聞得大君(きこえおおきみ)」に該当し、祖霊や祖神の祭祀を担当していたと思われる。

古い時代ほど、日本では女性が祭祀を担っており、蘇我氏の全盛期、仏道礼拝を女性が担当したのはその伝統を受けての事であったに違いない。