140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

現代の哲学

2015-04-18 00:05:39 | 木田元
木田元「現代の哲学」という本を読んだ。

「心理学主義は、なるほど、いっさいの心理的・社会的な規定を越えた無条件な真理の領域を想定する、いわゆる
論理主義に対する批判的立場としては有効なものであったが、その最大の欠点は、その主張がみずからにもはねかえってくると
いうところにある。もしかれらの主張が正しいとすれば、そのかれらの主張そのものも、経験的個人としてのかれらの
生理的・心理的機構に相対的な個人的主張にすぎないことになり、真理として受け容れるわけにはいかないことになる。
この立場では、普遍的な学問的認識というものは原理的に不可能なのである」
「しかし、このばあいも、もしかれら(社会学者)の主張が正しく、われわれの思考や思想がすべて社会的に制約され、
社会的状況の表現にすぎず、そうした社会的状況に限界がある以上、それらの思想も絶対的な意味で真ではありえないと
いうことになれば、当の社会主義の主張そのものも19世紀の西欧社会の状況のある種の反映にすぎず、
それ自身のうちに真の意味をもたないということになってしまおう」
「ところで、この歴史主義についても、心理学主義や社会学主義について言ったのと同じことが言える。
つまり、もしすべての思想が外的な歴史的状況の反映ないしその操り人形にすきないとすれば、そうした歴史主義の
主張そのものも同じわけであって、そこに何ら普遍的真理を認めるに及ばない、ということになろう」
「こうして、当時精神科学の諸領域を襲った実証主義的傾向は、いずれにせよわれわれの思考や思想のもつ内具的真理
―――それ自体に本質的にそなわった心理―――というものを認めず、それを心理的であれ社会的・歴史的であれ
何らかの外的・偶然的諸条件の単なる結果と見ることによって、自己矛盾に陥り、一般に学問的認識の可能性を
否定するものであった。ここでも理性―――普遍的真理とか普遍的価値―――が危機に瀕していたわけである」

そういうわけで実証主義的傾向(心理学主義・社会学主義・歴史主義)では「普遍的真理」といったものは見あたらないことになる。
もともと私たちがこの身を擦り減らして生きている世界では、そんなものは何の役にも立たないに違いない。
耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、下げたくもない頭を下げ、理不尽さを耐え忍びながら生きているのだ。
普遍的真理など要らないので、この私の生活を保障してくれるだけのカネをくれと、そんなふうに思うことが度々だ。
それでも人は何かを語らずにはいられない。「普遍的真理」などないとわかっていたとしてもだ。
そのような思想の断片(断片とは言っても彼らがその一生を捧げた成果である)が積み重ねられて行く。
そして私たちは、それらの断片を拾い上げ、理解し、考察し、次の断片を作り上げる。
私たちが生きている意味なんてないにしても、私たちが生きているということはそういうことなのだ。
超人と動物の狭間にあって蠢くことを止めないでいる。今更そのことにすら気が付かない生き方には戻れない。

「したがって、有機体と環境との関係は、物理的系とその場の関係とは比較できないような、ある生命的な<意味>を媒介とする
弁証法的関係と考えねばならない。有機体の反応はどれほど要素的な反応であっても、それが遂行される器官の種類によってではなく、
それのもつ生命的意味にしたがって分類されねばならないのである」
「生命的意味」というのはよくわからない言葉だが、ダーウィンと同じことを書いているのではないかと思う。
「有機体と環境との関係」と書いているところからして、そう解釈できる。
ここでは「物理的」ではないということが強調されているらしい。
だが「生命的」というのは、よくわからない言葉だ。

「動物にとって対象は、その時々のパースペクティヴのなかに現われ、その場の構成に依存する機能値をもっているだけのものである。
しかし、<物>とは、そうした多様なパースペクティヴのなかに現われながら、決してその<現われ>に還元されてしまわないもの、
さまざまな機能において現われる同一の<もの>でなければならない。したがって、こうした<物>としての構造が現われるのは、
直接与えられているパースペクティヴに閉じこめられることなく、これを潜在的なパースペクティヴと交互表出の関係におき、
運動空間と視覚空間とを結びつけ、ある感覚の構造を他の感覚へ移しうるような、つまりはさまざまな関係を関係させ、
構造化する独自の行為の水準においてである。これがメルロ=ポンティのいう行動のシンボル的形態であり、
真の意味での人間的行為のレベルなのである」
『シグナルとシンボルは理論上、二つの異なった世界に属している。すなわちシグナルは物理的な『存在』の世界の一部であり、
シンボルは人間的な『意味』の世界の一部である。シグナルは操作者であり、シンボルは指示者である。
シグナルはたとえシグナルとして了解され、用いられたとしても、一種の物理的または実体的存在であるが、
シンボルはただ機能的価値しかもたない』
「実在のシグナルが消え去ったあとも、有機体が内的にシグナルにかわる代理を産出して反応を完了させるばあい、
この代理となるものがシンボルなのである」
「いずれにせよ、このシンボル的行動によって、人間は直接的自然的環境を越え、いわば<世界>に開かれることになる。
人間存在が<世界内存在>という基本構造をもつといわれるのも、実はこの意味にほかならない。
したがって、ここで言われる<世界>とは、決して存在者の全体を指すのではない。
それは、物理的・生物的自然の構造を超出して、そこに創出された人間的な<構造>であり、しかも、この構造が人間によって
つくり出されたシンボルの体系である以上、それはむしろ人間そのものの存在構造だと言ってもよいであろう。
マルクスはしばしば「人間すなわち人間的世界」という言い方をしているが、事態の本質を正しく捉えた表現であると思う」

ここでは「シンボル的形態」が「人間的行為のレベル」であるとか、
「シンボル的行動」によって自然的環境を越え、「人間存在が<世界内存在>という基本構造をもつ」と考えられている。
ところでその「シンボル」と動物がそこに留まっているところの「シグナル」の差異はどこにあるかというと、
「シグナルが消え去ったあとも、有機体が内的にシグナルにかわる代理を産出して反応を完了させる」ということだけらしい。
そうすると「シグナル」は「組合せ回路」であり、「シンボル」は「順序回路」であるという違いしか残らない。
「組合せ回路」に比較すると「順序回路」は内部状態を持っており、生体の場合は記憶に相当するのだろう。
そうすると「シグナル」は「記憶」によって生み出され、したがって「人間的行為」だとか「世界内存在」というものも
「記憶」によって生み出されるという、まことにもっともであるというか、陳腐というか、普通というか、
そういうことを語っているようにしか思えない。
そして「組合せ回路」とか「順序回路」といったものはただの論理でしかなく、
「数学の危機」であるとか「物理学の危機」であるとか「理性的なものの危機」を感じさせない。
先ほどの「生命的意味」といった用語の無意味さと同様の無意味さがここにもあるようだ。
もともと「シンボル」だから「人間的行為」だとか「世界内存在」だと語ることに意味などないと思う。
「世界内存在」はそれのみでよく検討しなければならないことであって「シンボルだから」ということはどうでも良い。
「人間的行為」とか「人間的世界」というものも意味不明だ。
シンボルかどうかはどうでも良い。

「つまり、われわれは日常暗黙のうちに<世界というものがわれわれの経験とはかかわりなく、それ自体の超越的存在を持続し、
すべての事物はこの世界の内部に存在し、すべての出来事はこの世界のなかで生起する>ということを前提にして、
物を考えたり行為したりしている。しかし、フッサールによれば、世界の超越的存在のこうした素朴な想定、
つまり<世界定立>は、実はわれわれの日常的経験の積み重ねによって形成された一種の思考習慣にすぎず、
なんら哲学的反省を経ていない一つの先入見、いや、およそありうるなかでももっとも根本的な先入見なのである。
フッサールは、こうした先入見によって想定されているわれわれの日常的な生き方を<自然的態度>と呼ぶが、
そうなると、同じように世界の存在を前提してかかるいっさいの自然科学や人間諸科学も、やはりこの自然的態度を共有しているか、
少なくともその延長線上にあることになる」

「すべての出来事はこの世界のなかで生起する」というのは「思考習慣」にすぎないということらしい。
すべての人間がそのような先入見を持っているのだから、そのような世界は疑いようがないのだ。
そしてそのような前提がなければ、私たちは経験を共有することもできない。
そのような先入見が「真理」ではないとしたら、いったいどのような「世界」があるというのだろうか?
実際のところ、そのような先入見に基づいた「世界」しか私たちは知らないのではないだろうか?
絶対時間とか絶対空間は実際の時空とは違うのかもしれないが、空間が歪んでいるかどうかなんて「生活」に関係ない。
一方では「生活」であるとか「生きられる体験」に帰れと言いながら、実はそれは前提であり先入見であるという。
おそらくそのどちらもが正しいのだろうが、ここでも私たちは引き裂かれる。
ハイデッガーの「世界内存在」はフッサールの「世界定立」を発展させたものなのだろう。
それはほとんどの人にとってはどうでもよいことだろうが、一部の人にとっては神秘であると思う。
あたり前ではあるが、立ち止まってしまう。

「こうなってくると、<自然的態度>とは、もともと他の態度とならぶ一つの態度といったふうなものではなく、
いっさいの態度や立場に先立って、それを―――したがって超越論的態度をも―――可能ならしめるところの根源的態度であり、
それをもし先入見・臆見(ドクサ)と呼ばねばならないとすれば、それはいっさいの真理に先立つ根源的臆見だということになろう」
超越論的態度を可能ならしめるのが<自然的態度>ということであれば、
「哲学的反省」によってその「思考習慣」を改めるということは不可能ということになってしまうのだろう。
それが可能なことであるか不可能なことであるかを判断することすら出来ないだろう。
私たちは「根源的臆見」から逃れることは出来ないのだろうか?

うーん、やっとフッサールについて記載されているところの感想を書いたが、このペースでやっていると終わりそうにない。
この後、ハイデガー・メルロ=ポンティ・フロイト・ソシュール・レヴィ=ストロース等が登場する。
この本は1969年、つまり45年前に書かれていて、「ハイデガーの思想」「哲学と反哲学」「マッハとニーチェ」に比べると
読みにくいが、入門書として適しているというか、各々の思想についての見取り図が示されている感じがする。
「知りたい」と思わせてくれたことに感謝したい。