140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

マッハとニーチェ

2015-04-04 00:05:41 | マッハ
木田元「マッハとニーチェ 世紀転換期思想史」という本を読んだ。
マッハとは音速の単位にもなっている物理学者のことである。

「こうして、実体的な意味での物体も自我もすべて解消され、残るのは感性的諸要素がたがいに
函数的に依属しあい連関しあいながら現れ、絶えず離合集散を繰り返している一元的世界、
つまり<現象>の世界だけである。それは<物体>と呼ばれうるような複合体も現れるし、
<自我>と呼ばれうるような複合体も現れうるような両義的な世界である。
これらの複合体も比較的安定して持続するというだけで、絶対的な恒常性をもつものではない。
この世界には、そうした絶対的な恒常性をもつようなものはなに一つないのであって、
マッハに言わせれば、論理学的真理や数学的真理でさえも、そうした感性的諸要素の離合集散、
つまり経験に起源をもち、そこから生成してきたものなのである。
彼は、幾何学的空間でさえも、絶対のアプリオリではありえないと言う。」
そんなことが書かれていた。仏教の『無自性―空―縁起』に似ている。

「まず、『無自性』とは、文字通り『自性』がないということである。
『自性』とは、変化するものの根底にあってつねに同一であり、固有のものであり続ける
永遠不変の本質であり、他の何者にもよらずそれ自身によって存在する本体のことである。
・・・
『空』もまた、無自性と同じく、永遠不滅の固体的実体のないことを意味する。
このように、あらゆるものが空性であるということは、決して何者も存在しないとか、
すべてのものは虚妄であるとかいうことを意味しはしない。
・・・
『縁起』とは『因縁生起』を略した言葉で、事物事象が、互いに原因(因)や条件(縁)となり合い、
複雑な関係を結びながら、相互相依しあって成り立っていることをいう。
・・・
道元をはじめとする仏教者たちは、このような『無自性―空―縁起』の立場、すなわち、
すべての事物事象を関係性において把握する非実体的思考の立場から、本来、
『無自性―空―縁起』であるはずの事実事象を実体化し、そこに執着しがちな人間の傾向を批判する。
そして、仏教者たちは、常識的日常的な認識方法がこのような傾向におちいりやすいのは、
言語の分節機能をめぐって生じがちな誤解によると考えた。
言語による分節化とは、言葉によって世界を区切ることである。
『一水四見』のたとえに関して言及したように、人はみずからの生の必要に応じて世界を区切り、
区切ったそれぞれを言葉によって名付け文節化するのである。」

「空」は永遠不滅の固体的実体のないことを意味しているということだから、
感性的諸要素が離合集散を繰り返しているというのと同じことになる。
「縁起」は事物事象が、複雑な関係を結びながら、相互相依しあって成り立っているということだから、
感性的諸要素がたがいに函数的に依属しあい連関しあいながら現れるというのと同じことになる。
マッハがフッサールに先行しているというのはそれほどの時間差ではない。
釈迦牟尼仏がずっと先行していたということになる。
自我とか自己というものはなく感性的要素の複合体なのだから
マッハの業績であるとか釈迦牟尼仏の悟りであるとか言う必要もないかもしれない。
自我が解体されてしまうのであれば意志とか独創性とか創造性とか発見とか
そういうことを主張することに意味はなくなってしまう。
先端企業が特許で争っている光景というのも、或る感性的要素の複合体が他の感性的要素の複合体に対して
私(複合体)の方があなた(複合体)よりも先に出願したのだとそんなことを言い合っている感じがする。
遅かれ速かれいずれかの感性的要素がそうしたに違いないというだけのことなのだが、
「おのれ」というものが競い合ってしまう。

『仏道をならふといふは、自己をならふなり、自己をならふというは、自己をわするるなり』
『自己を忘れる』ということは、固定的な自我があるというとらわれから脱するということである。
つまり、自己を追求して、自己とは実は固定的なものとしては存在しないということが分かる。
自分だと思っていたものは、自分ではないのである。」
仏教ではそういうことになっている。

そういうことを認めた瞬間に救われるものもある。
無駄に生まれて無駄に死んでいった夥しいほどの無名の存在よ!
お前たちはそもそも存在しなかったのだ。

だが近代化(西洋化)した社会では「自己を忘れる」というわけにはいかない。
誰が誰より偉いと言ってニホンザルの群れのように序列を確かめたがるのだ。
そのようなプライドが感性的諸要素の複合体にまとわりついて離れない。
別にどうでもいいやという気もしないではない。
私がやらなくても別の複合体がやるに違いないなどと言ってしまうと
それは極めて「無責任」ということになるだろう。
「自己を忘れる」と執着がなくなり私有財産をめぐって誰も争わなくなってしまう。
シュメール文明が発展・成立したのも私有財産を認めたからだと言われている。
執着が競争を生み出し、そのような形態が「文明」というものであるかもしれない。
競争がなくなると成長が止まってしまう。
成長が止まると他の複合体の勢力に蹂躙されてしまう。
それは群れのボスにとって好ましいことではない。
経済を活性化すると言うのは簡単に言うとボスのために働けということだ。
個体に「自己を忘れる」ことがないよう強制するために「住宅ローン」などの制度もある。
住居を得るために人並みな生活を得るために数十年の奉仕が必要となる。
そのように発達した社会制度に救済は用意されていないだろう。
自己を維持したまま「自己を忘れる」というのは難しい。
自己を忘れてしまいたい人は自己を維持しようとしないだろう。
(つまり自殺ということになる)
そうすると生きながら「自己を忘れる」というのが修行に違いない。
感性的諸要素の複合体とか現象学とか言いながら
その学を成立させた功績は「自分」のものであるとフッサールは考えたかもしれない。
そんな人間よりは雲水の方に好感が持てるというものだ。

『あらゆる力の中心は残余のもの全体に対しておのれの遠近法を、つまりおのれのまったく特定の価値評価、
おのれの作用の仕方、その抵抗の仕方をもっている。それゆえ<仮象の世界>なるものは、一つの中心から発して
世界へ働きかけるある特殊な作用の仕方に還元されることになる。
いまや、それ以外の作用の仕方はまったくないのであって、<世界>とはこうした諸作用の相対的働きを指す
呼び名にすぎない。』
『<認識する>のではなく、図式化するのである―――われわれの実践的欲求を満たすに足るだけの
規則性や諸形式を混沌(カオス)に課すのである。』
「ここで『混沌』と言われているのは、たえず生成し変化しつつあるもののことである。
そうしたなかにいては生は安定することができない。
そこで、その混沌に、到達した現段階を確保しようとする生の要求を満たすに足る程度の規則性と形式を
押しつけ、いわばそれを『図式化』して、あたかもそれが静止した不変のものであるかのように
思いこもうとするのが、認識の働きなのであり、それはけっしていわゆる<認識>、
つまり<真に存在するもの>を把握する働きなどではない、とこの断章は言いたいのである。」
ニーチェについて、そのようなことが書かれていた。
マッハと重なるということで、この本のタイトルは「マッハとニーチェ」ということになっている。
「空」あるいは「混沌(カオス)」というのは把握できない世界を象徴している。
「感覚的諸要素の離合集散により生成(あるいは現生)」したものは「図式化」により捉えられる。
私たちは混沌など理解できないのだから認識できるものには秩序がある。意味がある。
私たちは私たちの形式を「世界」に押し付けている。
それは主観が世界をゆがめているというようなことではなく
そういうあり方でしか「世界」は「認識」できないと
そういうことになる。

「感覚的諸要素の複合体」が複合体にとって有益な情報を活用しようとする形式が「思考」かもしれない。
そして情報を一元的に管理するための形式が「自我」であるかもしれない。
「自我」という形式が「思考」という形式を用いて
「自我」とは何か?「思考」とは何か?と問うところに
無理があるかもしれない。