細谷貞雄訳「存在と時間(上)」を読んだ。
「それゆえ、この問いを問うということは、このはたらきが、ある存在者の存在の様態なのであるから、
それ自体、この問いにおいて問いがむけられている当のもの―すなわち存在―の側から
本質的に規定されているわけである。
われわれ自身が各自それであり、そして問うということを自己の存在の可能性のひとつとして
そなえているこの存在者を、われわれは述語的に、現存在(Dasein)という名称で表すことにする。
存在の意味をたずねるあからさまな透明な問題設定は、こうしてある存在者(すなわち現存在)を
それの存在についてまず適切に解明しておくことを要求するわけである。
しかしながら、このような行き方は、歴然たる循環論にはまりこむのではなかろうか。
まず存在者をそれの存在について規定しておくことが必要だというのに、
この規定にもとずいてあらためて存在への問いを立てようとするのは、
これこそ循環論でなくてなんであろうか」
そんなことが書かれているが、
一方では「上に印づけた問題設定のなかには、事実上いかなる循環も含まれていない」とも書かれている。
循環しているとかしていないとか、そんなことを問題にしても仕方がないかもしれない。
循環を避けなければならないとしたら問いはつまらないものになってしまう。
ルールを守っている限りルールそのものを問うことはできない。
政治の決定であるとか、経済の原則に従わないと私たちは生き延びることさえ危ういのだが、
そんなつまらない生き物が根底で「存在とは何か」みたいな問いを発する。とても不思議な現象ではないだろうか。
そのような不思議な存在者を「現存在(Dasein)」と著者は呼んでいる。
「現存在がしかじかのありさまでそれに関わり合いうる存在そのもの、
そして現存在がいつもなんらかのありさまで関わり合っている存在そのものを、
われわれは、実存となづけることにする」
それは何もせずともそこにあるわけで、ここではもう存在するために神様は必要ではない。
実存が内在してしまう無神論的な性格と、自然は加工されるための材料であるとする人間中心主義と、
欲望の充足を追求する商業主義が結びついた結果、世界はこんなふうになってしまった。
哲学に神様は必要ないが生活から神様がいなくなってしまうと
ヒューマニズム(人間中心主義)という名の貪欲が残るだけだ。
愛・夢・希望・勇気・・・そういったものもみんな買われてしまった。
そして夢を語る人々は自らがおぞましい思想に取りつかれているなんて
夢にも思わない。
第一部は三つの論に分かれる。
第一編 現存在の準備的な基礎分析
第二編 現存在と時間性
第三編 時間と存在
第二部もおなじく三つに分節する。
第一編 カントの図式論および時間論―時節性の問題設定の前段階として
第二編 デカルトの《cogit sum》の存在論的基礎と、res cogitansの問題圏への中世的存在論の継承
第三編 古代的存在論の現象的基盤とその限界の判別尺度としてのアリストテレスの時間論
そのような説明があるのだが、第二部は書かれなかった。
それでこの本は未完ということになっている。
そんなものを読んでどうするのかと言う人がいるかもしれないが
結論とか明確な答えがあるなんて私は考えてはいない。
誰かが何かに挑戦したのであれば、その過程から学ぶべきことは多い。
なんて素晴らしい未完の世界!
「それゆえ、この問いを問うということは、このはたらきが、ある存在者の存在の様態なのであるから、
それ自体、この問いにおいて問いがむけられている当のもの―すなわち存在―の側から
本質的に規定されているわけである。
われわれ自身が各自それであり、そして問うということを自己の存在の可能性のひとつとして
そなえているこの存在者を、われわれは述語的に、現存在(Dasein)という名称で表すことにする。
存在の意味をたずねるあからさまな透明な問題設定は、こうしてある存在者(すなわち現存在)を
それの存在についてまず適切に解明しておくことを要求するわけである。
しかしながら、このような行き方は、歴然たる循環論にはまりこむのではなかろうか。
まず存在者をそれの存在について規定しておくことが必要だというのに、
この規定にもとずいてあらためて存在への問いを立てようとするのは、
これこそ循環論でなくてなんであろうか」
そんなことが書かれているが、
一方では「上に印づけた問題設定のなかには、事実上いかなる循環も含まれていない」とも書かれている。
循環しているとかしていないとか、そんなことを問題にしても仕方がないかもしれない。
循環を避けなければならないとしたら問いはつまらないものになってしまう。
ルールを守っている限りルールそのものを問うことはできない。
政治の決定であるとか、経済の原則に従わないと私たちは生き延びることさえ危ういのだが、
そんなつまらない生き物が根底で「存在とは何か」みたいな問いを発する。とても不思議な現象ではないだろうか。
そのような不思議な存在者を「現存在(Dasein)」と著者は呼んでいる。
「現存在がしかじかのありさまでそれに関わり合いうる存在そのもの、
そして現存在がいつもなんらかのありさまで関わり合っている存在そのものを、
われわれは、実存となづけることにする」
それは何もせずともそこにあるわけで、ここではもう存在するために神様は必要ではない。
実存が内在してしまう無神論的な性格と、自然は加工されるための材料であるとする人間中心主義と、
欲望の充足を追求する商業主義が結びついた結果、世界はこんなふうになってしまった。
哲学に神様は必要ないが生活から神様がいなくなってしまうと
ヒューマニズム(人間中心主義)という名の貪欲が残るだけだ。
愛・夢・希望・勇気・・・そういったものもみんな買われてしまった。
そして夢を語る人々は自らがおぞましい思想に取りつかれているなんて
夢にも思わない。
第一部は三つの論に分かれる。
第一編 現存在の準備的な基礎分析
第二編 現存在と時間性
第三編 時間と存在
第二部もおなじく三つに分節する。
第一編 カントの図式論および時間論―時節性の問題設定の前段階として
第二編 デカルトの《cogit sum》の存在論的基礎と、res cogitansの問題圏への中世的存在論の継承
第三編 古代的存在論の現象的基盤とその限界の判別尺度としてのアリストテレスの時間論
そのような説明があるのだが、第二部は書かれなかった。
それでこの本は未完ということになっている。
そんなものを読んでどうするのかと言う人がいるかもしれないが
結論とか明確な答えがあるなんて私は考えてはいない。
誰かが何かに挑戦したのであれば、その過程から学ぶべきことは多い。
なんて素晴らしい未完の世界!