140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

ハイデガーの思想

2015-03-07 00:05:02 | ハイデガー
木田元「ハイデガーの思想」という本を読んだ。

「<存在了解><存在企投>も同じ事態に結びつく。<存在企投>とは、現存在が生物学的環境を<超越>して<存在>という視点を設定し、
そこからおのれの生きているその環境を見なおすことである。動物が環境のなかで出会うのは、
おいしそうな餌であったり、好ましいメスであったり、避けなければならない危険だったり、
その時どきの環境内での刺激の布置によってきまってくるそれぞれ特定の意味をもった刺激の複合体であるが、
現存在はその環境を超越して<存在>という視点に身を置くことによって、おのれの出会うすべてのものを、
そうした特定の意味を超えて一様に<存在するもの><存在者>として、つまりは<在るとされるあらゆるもの>として
見ることができるようになる。ハイデガーは<世界内存在>と<超越>と<存在了解>は同じ一つの事態を指すと言っているが、
それはこのような意味でなのである。」

そうすると<存在>というのは有益な情報ではなく無益な情報でもない。
『いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり』ということであるから
自己が無ければ時も無く存在も無いのであれば自己に付帯する形式あるいは自己を可能とする形式
その形式のようなものを概念と取り違えて西洋哲学は迷宮に陥る。
「特定の意味を超えて一様に<存在するもの>」は形式であるから特に言語の形式に現れる。
私たちはそのことにいちいち驚いてしまうのだが言語が無ければ自己(主観)も無いので当然のことだろう。
つまり私たちは言語を操っているようで実は言語に操られている。
私たちは言語を操るための、情報を操作するための有限状態機械(ステートマシン)なのだ。
有るとか無いとかはビットのON/OFFのようでありそれは情報の形式であり
ON/OFFの並びが意味を持つようになるのであってONの意味はということに捉われてしまっても
それをON/OFFの並びの意味で説明することは出来ない。
コンピュータにビットのON/OFFの意味を問うても回答は得られない。

「先ほどふれたように、<存在=現前性=被制作性>というアリストテレス以来の伝統的存在概念は、
ハイデガーの考えでは、非本来的な時間性を場としておこなわれる存在了解に由来する。
この視点から見られるとき、存在者の全体は、したがっていわゆる<自然>もまた、
<作られたもの><なお作られうるもの>として見えてくる。つまり、自然は制作のための単なる<材料・質料>と見られるのである。
ギリシア語のこの<ヒュレー>がラテン語では<materia>と訳され、これが英語の<material>に引き継がれる。
いわゆる物質的な自然観、自然を制作のための死せる質料と見る自然観はこの視点のもとに成立したのであり、
その上に立って近代の機械論的自然観も成り立ちえた。こうした自然観を基盤に近代ヨーロッパの文化形成が
おこなわれてきたことは明らかである。このような自然観は、当然のこととして制作のための技術知の担い手である人間を
世界の中心に据える人間中心主義(ヒューマニズム)と、顕在的潜在的に連動している。
してみれば、近代ヨーロッパにおける物質的・機械論的自然観と人間中心主義的文化形成の根源は、
遠くギリシア古典時代に端を発する<存在=現前性=被制作性>という存在概念にあると見るべきだ―――と
ハイデガーはこう考えていたのである。」

こうした自然観と人間中心主義は客観と主観の激しい分裂も伴っていたのではないかと思う。
その客観の部分は科学を生み出し、主観の部分は存在者を神に据える宗教と精神という神を内在した哲学を生み出す。
そのことに有限な肉体と無限の精神という構図も付随する。
さらに自然を人間の下位に置き征服しようとするこの思想はまた出自の異なる人間を自分の下位に置き征服しようとする。
その熾烈なまでの競争とか戦争行為もまたこの文明の特徴ではないかと思う。
この文明から戦争を取り上げたとしてもまだ強欲資本主義が残り経済という名の戦争を繰り広げる。
そんなことがずっと続いてきて、その思想が世界を呑み込んでしまった。
その考え方に染まらないのであれば滅ぼされてしまう。
生命の進化の過程で初めは様々な形態が試されたがやがて脊椎動物が支配的になった。
そのスタイルでない生物は淘汰されてしまった。
それが良いかどうかは知らないが生存競争を勝ち抜いた者は優れているとされる。
文明についても同じようなものであって、どれほど自然と他者を征服しようとする文明を批判しても、
勝てば官軍なわけで生き残った者が自らを優れていると言うだけのことだ。
敗れた者は滅ぼされるのであって、滅ぼされてしまったなら自分の考えたことを話すことも出来ない。
そして競争に満ちたこの世界を勝ち抜いて行こうとする人間が大半を占める中で
この世界全般に伝播してしまった思想の危うさに違和感を感じる人間がわずかに棲息している。
それはもう絶滅危惧種と言っても良いくらいだ。

「逆に言えば、『西洋とヨーロッパは、そしてそれらだけがそのもっとも内的な歴史の歩みにおいて根源的に<哲学的>なのである』。
したがって、『西洋哲学』とか『ヨーロッパ哲学』という言い方は、同語反復にすきない。そして、西洋とヨーロッパの歴史の
内的歩みが<哲学的>だというこのことは、この歴史の歩みから諸科学が発生してきたということによって証言される、と
ハイデガーばつけくわえる。科学知や科学技術の成立は、<哲学>と呼ばれる特殊な知を形成原理にしてきた
西洋=ヨーロッパ文化の展開の必然的な帰結だと言いたいのであろう。」
そんなことが書かれていた。

科学技術の発達が哲学の優劣を決めるわけではないと思うのだが、いったい両者に相関があると考えるのはどうしたことだろうか?
科学は心身二元論、主客分離を徹底した思想が辿り着く帰結であるように思われる。
西洋では哲学は古代ギリシャと近代ドイツでしか成立しなかったと言っている。
ハイデガーやウィトゲンシュタインは言語の限界に挑もうとするのだが
そのようなことは13世紀の日本で道元により試みられていた。
西洋が優位だと言い切れるものだろうか?
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