140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

私とは何か さて死んだのは誰なのか

2010-11-29 07:06:08 | 
池田晶子「私とは何か さて死んだのは誰なのか」という本を読んだ。
2009年に発行されているが著者は2007年に亡くなっている。

「私は、自分がどんなふうな暮らしをしたいとか、いずれはこんなふうになりたいとか、
理想の男性像、結婚観その他、そのたぐいのことの一切を一度も考えたことがなかった。
考えることを拒んでいたというのではない。
そういうことを敢えて考えないライフスタイルであるというのでもない。
普通、人は、そういうことを(そういうことだけを)、考えながら生きているのだと
いうことを、私は全然知らなかったのだ。(27ページ)」

今、思い出したのだが、私もそんなふうだった。あるいは今でもそんなふうだ。
芸能人の話題なんか子どもの頃からずっと苦手だ。
友達がみんな、どうしてそんなことに夢中になれるのか理解できなかった。
私はただ、ぼんやりと宇宙のことを考えていた。
私の身体が星屑で出来ているという事実に驚愕した。
何光年も彼方から届く星の輝きを眺めていた。

社会人になっても何歳で結婚して、何歳で子どもを儲けて、何歳で家を建てて、
何歳までに老後の生活資金を貯めて・・・
そういうことにも関心がなかった。あるいは関心がない。
それで今でも借家暮らしだ。

「私を考え、私を突き抜け、普遍に至る、これが形而上学。もはや「私」はNobody、
そして、Everywhere。帰属と肉体は世を忍ぶ仮の姿、人生の日々は、
相貌を変えぬままにその意味合いを変えるだろう。(32ページ)」

「私」が虚構であることは別の道から辿り着いた。
<私>が唯一のものではなくて普遍性を帯びたものであると私は認めた。
そうすると「私」は虚構であり<私>はNobodyであるわけだ。
しかし哲学はその先へは進めない。

著者は「科学」に対して好ましい感情を抱いていないようで
哲学あるいは形而上学が上位にあるとみなしているようだ。
しかし現在、私たちが抱えている問題はラマチャンドランが語っているように
<一人称>である主観と<三人称>で語られる客観(科学)を
どのようにして結びつけるかということだと思う。

その方法を哲学は提示しないし科学も提示しない。
それは21世紀最大の課題であると私は思う。
つまり心と脳の不可分の関係を明らかにすること・・・

「何もしないで独りでいること、すなわち孤独であるということは、それ自体が充実した、
非常にいいものである。不安などでは決してない。もしそれが不安であるとしたなら、
それは自分との付き合い方を知らないためである。しかし、他人と付き合うよりも先に、
人は自分とは一生付き合っていかなければならないのだから、これを知らないのは、
一生の損失である。(77ページ)」

携帯やパソコンでつながっていないと不安な人々に著者は語りかける。
携帯も所有せずTwitterやFacebookの存在も知らず
この人は逝ってしまった。
残された者としては著者の言葉を引用するしかない。
「自分との付き合い方を知りましょう。」
つまり自分の頭を使って考えましょうということだ。

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