140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

レキシントンの幽霊

2015-11-07 00:05:26 | 村上春樹
【レキシントンの幽霊】
表題が気になって「いつになったら幽霊が現れるのだろうか?」とそんな調子で読んでしまうが、幽霊がポイントというわけではない。愛することと、愛する者を失った時のことが書かれている。「トニー滝谷」と似ているような気もする。
「望まなければ失わないのに
求めずにはいられないよ
どんな未来がこの先にあっても」
人が死ぬわけではないが「夢みたあとで」を思い出した。死んでしまったのは「君を飾る花を咲かそう」だった。GARNET CROWのメンバーは今頃どうしているんだろう。古いジャズと同じように彼らの楽曲は色褪せて忘れ去られてしまうのだろう。過ぎ去ってしまったもの、滅びゆくもの、雨の日曜日の午後にふと思い出してしまうもの、そういうものを大切にしている。愛する者を失い、「予備的な死者のようにこんこんと深く眠り続ける」というのはどうなんだろう? 生きる屍ということだろうか? 人生を預けるに値する愛が過ぎ去ってしまうと、人生は無意味になってしまい、眠り続けるしかないのだろうか?
一度振り向けられた愛情が行き先を失うと、私たちは戸惑ってしまう。他に行き先がないことを知っている身体は活動を停止する。

【緑色の獣】
この「緑色の獣」というのは「椎の木」のことなのだろう。「椎の木」は「私」の愛情を受けて大きく育ち、「緑色の獣」は「私」の憎悪によって消え去ってしまった。私の考えていることがわかるらしいので、言葉にしなくても効力があるのだろう。あるいは憎悪というものは「緑色の獣」でなくても察知されるのかもしれない。愛情もそうかもしれない。

【沈黙】
「もちろん僕は青木に対して腹を立てていました。時には殺したいくらい憎んでいました。でもその時、満員電車の中で僕が感じたのは怒りとか憎しみよりは、むしろ悲しみとか憐れみに近い感情でした。<本当にこの程度のことで人は得意になったり、勝ち誇ったりできるものなのか? これくらいのことでこの男は本気で満足し、喜んでいるのだろうか?>そう思うと、なんだか深い悲しみみたいなものを感じたんです。この男にはおそらく本物の喜びや本物の誇りというようなものは永遠に理解できないだろうと思いました」
「本物の喜びや本物の誇り」というようなものもどうなのだろう?
本当に下衆な人間というのは「本物である」とかどうとか、そんなことは気にしないだろう。だからそんなふうに相手を憐れんだところで、何も変わりはしない。彼らが「本物の喜びや本物の誇り」を永遠に理解できないだろうということは、彼らにとってどうでもよいことだろう。本物を知らないのであれば、本物であるかどうかなんて気にならない。そんな相手を憐れんでも仕方がない。

【氷男】
「本当に信じがたいことなのだけれど、氷男はどういうわけか私のことを熟知していた。私の家族構成やら、私の年齢やら、私の趣味やら、私の健康状態やら、私の通っている学校やら、私のつきあっている友だちやらについて、彼は何から何まで知っていた。私がもうとっくに忘れてしまったような遠い昔のことまで、彼はちゃんと知っていた」
氷男というのは「過去」「記憶」のことなのだろうか? 
それも一般的なものではなく「私の過去」「私の記憶」というようなものなのだろうか?
「そして私にはわかっていた。私たちの新しい一家が南極の外を出ることはもう二度とないのだということを。永遠の過去が、その途方もない重みが、私たちの足をしっかりと捉えていた。そして私たちにはもうそれを振り払うことができないのだ。今の私にはほとんど心というものが残されていない。私の温もりはずっと遠くの方に離れていってしまった」
厚い氷に閉ざされ、温もりや暖かさからは永遠に隔離されているその大陸は、「永遠の過去」の象徴なのだろう。暖かいと形容される感情から切り離された氷男は、その人間にとっての固有の過去ということかもしれない。かつて「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」では「記憶」が「心」と関連付けられていたが、ここでは「記憶」ではなく「感情」が「心」と密接な関係を持っているようだ。

【トニー滝谷】
妻の残した洋服と、父の残したジャズ・レコードのコレクションを処分してしまうと、孤独をかみしめることになる。物への思い入れというのは実際のところ「本人」にしかわからない。私が集めた本とCDも、私が死んでしまったなら、ブックオフで処分されてしまうに違いない

【七番目の男】
「・・・しかしなによりも怖いのは、その恐怖に背中を向け、目を閉じてしまうことです。そうすることによって、私たちは自分の中にあるいちばん重要なものを、何かに譲り渡してしまうことになります。私の場合には―――それは波でした」
「しかしたとえ遅きに失したとしても、自分が最後にこうして救われ、回復を遂げたことに、私は感謝しております」
「損なわれる」ことはあっても「救われる」ことは今までに一度もなかったのだが、ここで初めて「救われ」と書かれている。そして「文章を書くことは自己療養へのささやかな試みにしか過ぎない」ということであったが、恐怖、あるいは恐怖のようなものを直視するということが、なんらかの救済につながるということかもしれない。

【めくらやなぎと、眠る女】
「螢・納屋を焼く・その他の短編」に収められている「めくらやなぎと眠る女」に十年ぶりに手を入れ短くしたものということだ。
「やらなくちゃいけないことなんて、どこにもひとつもない。でもここにだけは、いるわけにはいかないんだ」というところに傍点が打たれている。その少し前に、「彼らはいったい誰なのだろう? そしていったいどこに行こうとしているのだろう?」という文章があった。「ノルウェイの森」につながりがあるということだから、そういう話にもなってしまう。ただ結局のところ、どこにも行けないのだ。私自身の人生を離れてはどこにも行けない。私自身の身体を離れてはどこにも行けない。ゴーギャンの『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』には誕生から成年期を経て死に至る人生の過程と、そのありさまを見つめ続ける仏のような姿が描かれている。生き死にがずっと繰り返されてきたことが感じられる。「どこから来たのか? どこへ行くのか?」ということだが、実際には生き死にが繰り返されるだけで「どこにも行けない」ことが画家にはわかっていたのではないかと、そんなふうに思った。

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