こんにちは  お元気ですか(上郡町 そとかわピアノ教室)

上郡町の、小さなピアノ教室です。
ピアノを通して元気になれる教室を目指しています!

「賢い子」に育てる究極のコツ

2016年08月20日 | 教育のこと

・・・・というタイトルの本を見つけました。

本の帯には「10万部突破!」の、文字も。

サブタイトルに、

「16万人の脳画像を見てきた脳医学者が教える」

と、あります。

今の私のレッスンのテーマは脳トレ。

特に、高齢者のかんたんピアノを始めてからは脳にとってピアノが一番の脳トレであるという意識がますます強くなっています。

そんな時に見つけた、この本。

著者は、東北大学加齢医学研究書の教授です。

たくさんの脳画像から見えてきた賢い子が育つ条件について、とてもわかりやすく、たくさんのイラストを使って書かれているので、一気に読んでしまいました。

賢い子を育てるための手立てはもちろんなのですが、

加齢医学という立場から、あらゆる年代の人にも今の暮らし方に注意することで、認知症のリスクを減らせるということ、

子どもがもう大きくなってしまった親にできることなど、

子育てという枠を超えて、読む価値のある本でした。

そりゃまあ、私はとっくに子育ては終わってしまいましたが、人は何歳になっても学ぶべきことはあるはずですよねえ。

この本からは、学ぶことと、愛情をかけることに終わりはない、ということもあらためて教わったような気がします。

そして何より、子どもの習い事について、この本でも明確に

3歳頃から習わせるのは、音楽、ピアノが良い

ということが書かれていることに、ますます元気をいただきました。

ピアノ教師は、子どもの成長過程において、かなり大事な役割を果たしているとも言えると思うと、

やっぱり嬉しいじゃないですか。









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体罰

2013年04月29日 | 教育のこと
言うこと聞かない子には少々痛い思いをさせないといけないのかな・・・・。

小学校の頃、クラスの男子が叩かれるのを見てそんなふうに思っていました。

クラブは文化部だったから体罰はあまり縁のない世界だったように思います。

体育系のクラブに入っている友達からは時々叩かれたことを聞いていました。

大変だな・・・

と、人ごとでした。

わたしが記憶に残っている体罰は、6年生の時、授業中にちょっとふざけていて友達の筆箱を隠した時、先生に頭を叩かれました。気さくで面白い授業をする先生で、大好きだったからちょっとショックでした。まあ、悪いのは私だったのですが。「あ。先生、叩くんだ」と、思いました。

その先生が、激しい体罰をしたことが一度だけあります。クラスの男子でやんちゃな子がいて、冬休みに火遊びをして、危うく山火事になりかけた時がありました。

お休みが明けて、クラスのみんなの前で、その子を泣きながら往復ビンタを何回もしました。「忘れるな、忘れるな」と、言いながら顔を真っ赤にして叩いていました。

中学校の時、社会科の先生でちょっと変わった先生がいて、地名や人名などをいくつも覚えてくるなど、暗記の宿題をたくさん出す先生で、覚えること自体がなかなか大変で、クラスの半分かそれ以上が宿題を全部出来てきませんでした。授業の時、一人ずつ言わせるのですが、途中で詰まったり、言われた数だけ覚えてなかったら、本気のげんこつを頭の真上からお見舞いするのです。突き刺さるようなげんこつで、すごく痛かったのを覚えています。

当時は、そういうやり方なら生徒は覚えてくるのだろうと、先生は思ったのだろうな。でも、覚えられないものは、覚えられないし。仕方ないな。痛いの、我慢しようかな、ぐらいに思っていました。

いろんなやり方があるし、もちろん効果があったかもしれない。
火事を出しそうになった子は、あの時のことをどう思いながら思い出しているのだろうと考えます。

暗記ができなかったかわりにげんこつ見舞われたことは、遠い昔の思い出です。げんこつをもらってももらわなくても、暗記そのものにどんな意味があったかはよくわからないままです。

おかげさまで、理不尽な体罰には合わずに来ましたから、そんなものだと思っていましたが、昨今の度を過ぎた体罰には、胸が締め付けられる思いがします。先生も苦しんでいる方が大勢おられることでしょう。でも、教育の意味をはき違えた事で、犠牲になった生徒の、若い育ちゆく命が踏み潰された無念を思うと、かわいそうでなりません。そこまで至らなくても、心に傷を負った生徒の気持ちを思うと、悲しくなってしまいます。

子どもたちにはやはり愛を持って伝えていきたいと思います。そう言う意味では、組織に縛られない場所にいられるのは、ありがたいことなのなと思いました。




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才能について

2012年05月28日 | 教育のこと
「自分には才能がない」などと決めつけないことだ。

自分の好きなことを一生懸命やっていれば、人がその人の才能を認めるようになる。





えーーと、誰が言ったかは、忘れてしまいました。でも、たしかに言い得て妙、と思ったので記憶に残っています。

誰にも負けない好きなことを持つのは、何にも代えがたい強みですね。

歌手の森進一さんはあの独特な声で、最初は誰も彼が歌手になれるなんて思っていなかったそうです。

でも、とにかく歌うことが好きで、歌い続けるうちに歌手になれた、ようなことを聞きました。(すみません、これまたうろ覚えで・・・・)

結局、才能とかいうよりも、その人が、そのことをどれだけ情熱を持って打ち込めるかにかかっているのだな、ということは今まで色々な人の取り組みや成功談を聞いて思います。

親は少しでも子供が能力が高くあってほしいし、そのためにいろいろな努力を惜しみませんが、親にできることは、あきらめないで頑張ることを教えることと、子供を信じて待ってやることぐらいしかないのかなあ等と思ってしまいます。


思ってしまうけど、いろんな努力をしてしまうものです、親ですもの。

昨日もついつい、進路についてしゃべりすぎ、息子に釘を刺された母でした・・・。




練習時間50分
4月28日から合計11時間10分







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日本の子育て

2012年04月13日 | 教育のこと
昨日のようなコラムを読むにつけ、昨今の日本における非常時の日本人の振る舞いを見た外国人からの評価の根源にあるものが、はるか江戸時代からつながっているのだと思うと、文化とはこんなにも深く根差したものなのかとあらためて驚くと同時に、ここで途絶えさせてはならない、などと殊勝にも思ってしまいます。

日本人の美意識や特性が変わってきたとはいえ、まだまだ捨てたものではないと感じられる部分があるのなら、やはり、今の時代に生きる者たちがそれぞれのスタンスで、できることをしていかなくては、と思うのです。

とはいえ。

私自身、何ができるか・・・・とかいうより、そんなこと言う資格があるかと、落ち込んじゃう要素をいっぱい抱えていてそれを思うとつぶれそうになっちゃうのですが。

だからって、何もしないわけにはいきませんものね。


「人生で最大の失敗は、何か。

負けることではない。

何もしなかったことだ」


この言葉が真実だと思えば勇気もわいてこようというもの。

落ち込んじゃうこといっぱいあるけど、やっぱり、頑張りましょうよ。






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「脳」を育てよう

2012年04月12日 | 教育のこと
ピアノレスナー向けの雑誌に載っていたコラムから。

子育て中のお母さまへ。ご参考になればと思います。

ヒトの教育の会会長・九州大学医学部名誉教授という肩書を持つ井口清先生のセミナーのレポートです。


長年の生物学的研究から導き出された「脳の育て方」(=子育て論)とは、

何より“感性”を大事に10歳までに「生きる力」を育て、


そのあと

その土台の上に「生きる手段」(知性教育)を育てるべし

というものである。

驚くべきは、江戸時代の日本ですでのそのような教育が実践されており、だからこそ、幕末の日本人は外国人から絶賛されるほど子育てがうまく、たくさんのすぐれた人材が現れ、明治維新を成し遂げたのである。


現在の不登校、ニート、引きこもりといった若者の問題はいずれも「生きる力」を持っていない。

子どもの個性を伸ばすことと、厳しく訓練する(=しつける)ことのバランスを取る。

どのように教育を行うか?

人類の進化に則(のっと)った脳の育て方をする。

誕生から三歳まで(第1期)

猿人から原人までの古い進化に対応する古い脳で感性を呼び覚ます時期。
三歳までに脳の中で人格の基本となるニューロン回路が大人の80%まで作られるので、
「赤ちゃんを人格ある『人間』に育てるのだ」というまわりの大人の迫力ある絶対的愛情が必要であって、早期英才教育はしてはいけない。

4歳から10歳(第2期)

引き続き「古い脳」で感性を仕上げる時期。
未熟なままで生まれた赤ちゃんの心は10年にわたり感性教育を経て「人間の心」になる。
訓練・しつけ・稽古の時期。
集中力・忍耐力・達成感を味わう。
意味を理解させるよいうより模倣を繰り返して体で覚える学習方法がふさわしい。
(習うより慣れろ・門前の坊主習わぬ経読む・・・ですね!あと…泣こうがわめこうがだめなものはだめ!とか・・・親も一番体力を必要とする時期ですね。)

11歳から20歳

原人から現代人への新しい進化に対応する「新しい脳」が働き始める知性教育の時代。
第2期のようなしつけは抑え、自主性に任せる。
内発力がわいて学習意欲が起こる(のを待つ・・・・・これが、実は難しい!!)

人間の脳は、生物学的に適切な時期に、適切な教育(刺激・訓練・しつけ)を受けることが必要である。




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恩送り

2012年03月12日 | 教育のこと
誰かから聞いた言葉ですが、今まで自分が受けた恩を、ほかの人に返すこと、特に、親からいただいた恩を子どもに送っていくという意味の恩送り。

年を重ねるにつれてずしりと響いてきます。

私は、親からいただいた恩の大きさほど子どもに送ってやれているだろうか。

若さに任せて突き進むだけの自分本位の人生だったのではないか・・・そんなふうにどうしても思ってしまうときがあります。

生徒のためにと怒ったことも、結局自分の気持ちのはけ口にしていただけなのではないかと思う時も。

そう、自分を振り返りながら、せめて、今、自分は反省していて謙虚になろうとしていることを確認して、それでもこれからだ、と思う自分に希望を持とうとしています。

そんな気持ちにしてくれる、アツい文章に出会いました。

ぜひ、読んでいただきたくて、ご紹介いたします。








 「幼児教育に懸ける」


    天野優子(一廣学園 風の谷幼稚園園長)

        『致知』2005年11月号「致知随想」
        


………………………………………………………………………………………………

 いま、入園児募集の際に受ける質問の多くは、
 次のようなものです。
 
 
 「スクールバスはありますか」

 「給食はありますか」

 「預かり保育はありますか」


 問われているのは教育の中身ではありません。
 子育てを人まかせにし、自分たちの負担を
 少しでも減らしたいという感じのものが多いのです。
 
 これは親による無意識の「子捨て」ではないでしょうか。


 いまから八年前、五十歳を過ぎていた主婦の私が、
 三億円の借金をして立ち上げた風の谷幼稚園。
 
 十四年間の幼稚園勤務の経験以外に、土地も資金もない状態。
 地主さんに土下座をしたり、役所では
 たらい回しの目にも遭いましたが、
 そんなことは問題ではありませんでした。

 設立の動機は、人が人として育っていきようがない、
 そんな幼児教育の現状に、強い危機感を覚えたからです。

 子どもたちに「誇りをもって生きていってほしい」と
 いうのは私たちの願いです。
 
 しかしいま、大人も含め、多くの人々が強い不安感や
 自己否定感を抱えて過ごしています。
 私はその主な要因は、自分というものを
 きちんと確立できていないという
 自信のなさにあると考えています。


 幼稚園を始めた頃のこと。
 
 年長児に、小さい子の面倒を見てほしいと頼んだら、
 
 
 「なんで俺たちがしなきゃいけないの?
  こっちだってしたいことがあるのに」
  
  
 といわれ、強いショックを受けました。
 ところがその彼らに、嫌々ながらであれ
 面倒を見てもらった子たちが年長になった時のことです。

 幼稚園から一キロ余りある尾根道を伝っていくと、
 広い芋畑に着きます。
 子どもたちはその芋を掘りたいだけ掘ってよいのですが、
 全部自分で持ち帰ることが約束事。
 
 年長児は皆、体重の半分もある芋を背負っているにもかかわらず、
 年少児の手をちゃんと引いて帰ってくるではないですか。
 理由を聞いてみると、
 
 
 「これまで自分たちがしてもらったから」。
 
 
 これは私にとって、目から鱗が落ちる体験でした。

 つまり、人は自分がしてもらったことを決して忘れず、
 その受けた行為を必ず誰かに返していくものなのです。
 
 大切なのは、それを言葉ではなく、
 具体的な行為を通して体験させていくということです。


 私は、人は白紙の状態で生まれてくるものだと考えています。
 子どもたちはその状態に、周りから
 さまざまなものを吸い取って色をつけていきます。

 赤ちゃんの時から始まる、
 快、不快を中心とした「感覚」。
 その感覚が点で集まっていき、感性が形成されていく。

 次にその感性が、価値観へとつながり、
 やがては人生観をつくっていく。
 
 だからこそ、その基となる「感覚」の部分に、
 どんなよい情報や体験をインプットさせるのか、
 それを丹念にやろうと考えているのです。


 それではもう一つ、木工作を例に挙げてみましょう。

 子どもたちには三歳の時から金づちと釘を使わせ、
 車などの遊び道具を作らせます。
 当然初めはうまくいきません。
 
 釘が曲がってしまったり、板からはみ出てしまったり。
 そんな時は「釘を抜けば、また打てるんだよ」と声をかける。
 それで穴ぼこだらけになったなら、板をひっくり返せばいい。

 おかげで、風の谷幼稚園の子どもたちの中には
 「失敗」という言葉がありません。
 
 そうやってうまくいかなかった時に、
 まだ可能性があるはずだ、何かいい方法があるはずだと
 発想できる力を身につけることが、
 生きる上で大切になってくるのです。

 だから縄跳びでも、体の未発達な四歳の時期に
 あえて「できない」という事実にぶつけさせ、
 課題をクリアするための方法を分析させます。
 
 以前、子どもたちにカルタ作りをさせたところ、
 こんな読み札を作った子がいました。


「やればできると思えばできる」


 皆より体も小さく、つまずきながら進んできた子でしたが、
 私はそれを見て、もう卒園したっていいよと思いました。
 それさえ分かっていればどこへ行っても大丈夫。
 
 幼児期とはそうした経験の積み重ねの中から、
 揺るがない自己をつくっていく期間でもあるのです。


 しかしながら現在、幼児教育を取り巻く状況は惨憺たるもので、
 私のやっていることなど焼け石に水にもならないと、
 悲観的になってしまうことがあります。
 
 冒頭にも触れた、上の世代から伝わってくるもののなさ。
 人間は、人間が愛情を持って育てない限り、
 ちゃんとした人間にはなれないものなのです。
 
 それでも自分にできる精一杯のことはやる。
 幼稚園を立ち上げる時、三億円のお金を借りるため、
 夫の実家も何も全部担保に入れ、
 以来十年近く無給で働いています。
 
 人を信頼することが難しい世の中において、
 そうした私の行為は多くの人に
 「本気」として映るようです。
 
 だから、なまじ給料なんて
 もらわなくてよかったと思っています。


 開園当初は、絆創膏を買うお金もなかったこの幼稚園に、
 いま年間四百万円近くの寄付金が集まります。
 来年、その集まったお金で、
 幼稚園のそばに五百坪の土地を買い、
 自然の広場を作る予定です。
 
 私たちの理念に共感してくださり、
 現在では入園のために
 他府県から家族ごと引っ越してこられるケースも
 珍しくありません。
 
 光が一杯に溢れ、風が流れる幼稚園。
 この場所が子どもたちの
 よきふるさとになってくれることを願っています。

教えることとは・・・・

2011年12月02日 | 教育のこと
昨日の西播磨地域ふれあい交流会での記事を、もう一つ。

午前中の研修会で、近畿医療福祉大学教授の岩井忠彦先生の講話がありました。題目は、

「西播磨の中世~その文化を支えた人々~」

見ただけで、眠くなりそうなテーマ。どうやってそれと悟られずに寝ようかな、と思っていたのですが。

岩井先生は、冒頭、
「私は高校で長年歴史の教科を教えてきましたが、学校教育ではなぜか、古代から必ず教えることになっている。歴史の勉強の、本当の面白さを伝えられずに定年退職してしまった。歴史屋としての責任を果たすためにあちこちで話をさしてもらっています」
と、あいさつされました。

へえ、と思ったのでした。

もちろん、連日の寝不足でまぶたは重くなるのですが、何かの拍子にハッとさせられるような話題、緩急つけたユーモアを取り混ぜての話は、面白く、ああ、こんな歴史の先生だったら私ももっと学生時代に歴史を勉強していたかも、と思えるような方でした。

歴史を動かしてきた大きな流れの中にいる人たちのことも大事だけれど、自分の住んでいる土地で、その流れの中でどのような生活や文化を営んでいた人たちがいたのか、そのことを教えてもらった、興味深いひとときでした。

話を聞いていて、この方は本当に歴史が好きなんだなあと聞くとともに、その面白さを何とかして伝えたい、という静かな情熱を感じるのでした。きっとそれが伝わるから、面白いと感じるのだろうな、とも。

私はピアノを教えていますが、私自身がこの先生と同じようにピアノのこと、どこまで好きなんだろうかな、と思います。「好き」がいっぱい詰まっているから、教えることも楽しくなるんだろうな。


わが意を得たり!

2011年10月20日 | 教育のこと
以前、明石家さんまが司会を勤める「ホンマでっか!?TV」という番組で脳科学者の澤口俊之氏が
「習い事はピアノだけでいい」
と、発言したことについて書いたことがありました。

http://blog.goo.ne.jp/kakinokiman-0827/e/4c7857d16305b8e0af1b39da2b259fbf

夕べはその番組の2時間スペシャルで、専門家の皆さんのもっともなお話と、ゲストやさんまさんの絶妙なトークを聞いて笑い転げ、楽しく見ていたのですが、そこでまた、習い事をする意味が話題になり、「なるほど!」と、思ったのでした。

それは、韓国で今、そろばんが子どもの習い事として大変広がっている、というものでした。そして、そろばんを習った子は何かをしていても話しかけられたとき、作業中のことを中断せずに話をすることができる能力が身についている、のだそうです。

このことについて専門家のコメントがあり、そろばんに限らず絵でもピアノでも、習い事をするということはそのこと自体がうまくなる、うまくならないというよりも習い事をすることによって集中力を養っているのだ、と言っていました。

なるほど!

確かに、波はありますが、がんばって練習して仕上げの段階にきたときの生徒の演奏に、感動することがしばしばあります。難しい曲を最後まで弾ききったときの子どものすばらしい集中力に心が震えるとき、ああ、ピアノを教えてて、よかった!と、心から思います。

少子化の時代、一人でも多くの子どもたちがよい体験をたくさん積んでほしい。その機会のひとつに、ピアノが役に立つことは数え切れないものがある、と、思いません?




やめ方

2011年06月11日 | 教育のこと
物事をやめるにも、やめ方ってのがある、と思います。

ピアノ教室も、然り、です。

でも、そのことに気付かせてもらったのは、実はつい、最近のこと。同じピアノ教師でブログをされていて、ピアノ指導について多くの示唆を与えてくださり、たくさんのアクセスをお持ちの先生です。

「しょうこ先生の日々」
http://blog.livedoor.jp/chocorin_p/

生徒が(もしくは、生徒のお母さんが)
「そろそろピアノはやめようと思います・・・」
と、言ってきたときに、私はうろたえながらも
「やめるのは簡単だよ。続けることが大事だよ」
と、話し、それでもやっぱりやめると決めた生徒にそれ以上のことは言えず、お別れするのでした・・・。

中には、生徒が来なくて、親御さんがいきなり「やめます」、と言ってそれきりになることも。

釈然としない思いを抱えていたら、しょうこ先生のブログに、まさに「やめ方」について書かれているではありませんか!

まずは、なぜやめるのか、その原因をきちんと知ること。原因解決のために親御さんと協力して解決していくこと。

それでも、年齢が上がって、いつかはやめる時期がきます。生徒も、親も納得して区切りをつけるときがきます。

いずれにしても、やめるときには、今までピアノを習わせてもらった感謝の気持ちを両親に伝える。

そのようなけじめをつける場を、教師の方で用意する。

・・・考えてみれば、学校の卒業式は、そういう「場」なのですよね。

しょうこ先生のブログを読んで、自分のプロ意識の低さにちょっと情けなくなったのです。

でも、私もこれでひとつ、勉強させていただきました。

ピアノなんて、思えば本当に贅沢な習い事です。でも、感性を育てる大事な習い事です。そして、残念ですが、誰でも習えるというものでもない。そのような場所にお金を払ってでも通わせてもらえた子どもは、そのことに感謝すべきことだということを、知らなくてはなりません。

教師の側も、よくぞかよってくれましたと、生徒にも親御さんにもその出会いを感謝して、今までの努力をねぎらい、今後の人生をより味わって生きていきましょうと、笑ってお別れしたいと思います。

ピアノに限らず、子どもがつまづき、「やめたい」と、弱音を吐くことは何度もあるでしょう。やめるのは簡単です。でも、わたしたち大人のすべきことは、逃げることを教えるのではなく、乗り越えることを教えることです。

そのために、おうちの方たちと手を携えてレッスンを進めていきたいと思います。




創造性をはぐくむ子どもの「あそび」

2011年04月08日 | 教育のこと
子どもはよく、大人のまねをしてごっこ遊びをしたり、空想の世界で遊んだりします。

子どもの教育について論じる学者が「遊びは自由であること。目的があってはならない」という意見について、疑問を投げかける文章を読みました。その方の言うところによると、

動物が熱心に行う行動に目的のないものはありえない。

子ども自身は遊びに目的があるかないかなど考えることはないが、子どもは気がついていないだけで、目的はある。

子どもが好きな自由遊びの目的は、

「脳が最も発達する時期に、脳を最も発達させるため

である。

動物にとって大事なことは、

男は「縄張りを守ること」・・・・男の子は戦争ごっこが好き

女は「子どもを育てること」・・・・女の子はおままごとが好き

遊びの中で、子どもどうしでその力を磨くのであり、そこに大人の入る余地はない。

子ども達が勝手に決めるルールや、勝手に作る目的があるのであり、それがないと遊びが成立しない。

じゅうぶんに自由遊びを経験した子どもは、人生の困難な局面にあっても、その状態から抜ける(忘れる)ことができ、別の対応の方法を見つけ出す。

そのような子どもは、社会に出てからも、自分で問題解決に積極的に取り組むことができる。

そして、社会が求めているのは、そのような人なのである。

今は、たくさんのスポーツクラブや習い事があり、大人の管理のもとに子どもたちの健全育成がうたわれていますが、創造性をはぐくむという点においては、子どもの自由遊びに勝るものはないということになります。





(夕べの献立)
親子どんぶり