26日未明、火事がありました。
六角屋というお好み焼きのお店をしていたおじいさんとおばあさんのおうちでした。
六角屋を上郡民報で取材させていただいたのは、もう4年前になります。
長いこと上郡に住み、持ち帰りのお好み焼きを家族に買ってもらって食べたことはありましたが、六角屋のお店に行ったのはそのときがはじめてでした。
おじいさんがお好み焼きのお店を出したくて、夫婦であちこち食べ歩いて勉強したこと、鉄板の周りにつんだレンガのレイアウトはおじいさん自らのアイデアであること、大阪方面から鉄道の写真を撮りに来た人たちが立ち寄ってくれて、「元気?」と、声をかけてもらうのがうれしい、などお話を聞かせてもらったことを今でも覚えています。
また、その合間に電話がかかってきてそれが昔ながらのダイヤル式の黒電話であることを発見して興奮したことも。
その一部始終を記事にしたら、ずいぶんたくさんの方から記事の感想をいただきました。それだけ長いあいだ、皆さんに親しまれてきたお店だったのだな、と思いました。
体調を崩されて、お店を閉めた、と2年くらい前に聞いてました。
確かおじいさんは体が不自由と聞いていましたが、このたびの火事でご無事だったろうかと心配しましたが、すでに空き家になっていたとの事。
体が動くあいだは、と、赤いベレー帽をかぶり、大きな発泡スチロールの箱を自転車の荷台にくくりつけてやや危なっかしく運転していた姿を思い出します。
そんなおじいさんを気遣いながら、おばあさんも「姪に手伝ってもらって何とか頑張っている」と、話しておられたっけ。小さなお顔に分厚いめがねが乗っかっていました。
六角屋のお好み焼きを食べた人それぞれに、それにまつわる思い出を持っておられることでしょう。
ひとつの時代がまた過ぎ去ろうとしています。
六角屋というお好み焼きのお店をしていたおじいさんとおばあさんのおうちでした。
六角屋を上郡民報で取材させていただいたのは、もう4年前になります。
長いこと上郡に住み、持ち帰りのお好み焼きを家族に買ってもらって食べたことはありましたが、六角屋のお店に行ったのはそのときがはじめてでした。
おじいさんがお好み焼きのお店を出したくて、夫婦であちこち食べ歩いて勉強したこと、鉄板の周りにつんだレンガのレイアウトはおじいさん自らのアイデアであること、大阪方面から鉄道の写真を撮りに来た人たちが立ち寄ってくれて、「元気?」と、声をかけてもらうのがうれしい、などお話を聞かせてもらったことを今でも覚えています。
また、その合間に電話がかかってきてそれが昔ながらのダイヤル式の黒電話であることを発見して興奮したことも。
その一部始終を記事にしたら、ずいぶんたくさんの方から記事の感想をいただきました。それだけ長いあいだ、皆さんに親しまれてきたお店だったのだな、と思いました。
体調を崩されて、お店を閉めた、と2年くらい前に聞いてました。
確かおじいさんは体が不自由と聞いていましたが、このたびの火事でご無事だったろうかと心配しましたが、すでに空き家になっていたとの事。
体が動くあいだは、と、赤いベレー帽をかぶり、大きな発泡スチロールの箱を自転車の荷台にくくりつけてやや危なっかしく運転していた姿を思い出します。
そんなおじいさんを気遣いながら、おばあさんも「姪に手伝ってもらって何とか頑張っている」と、話しておられたっけ。小さなお顔に分厚いめがねが乗っかっていました。
六角屋のお好み焼きを食べた人それぞれに、それにまつわる思い出を持っておられることでしょう。
ひとつの時代がまた過ぎ去ろうとしています。