S2000奮闘記

スポーツカー偏愛録。
S2000のメンテナンスノート。

2011年 S2000ぶらり旅「小田原/小田原梅祭り・曽我別所梅まつり 編」

2011年02月06日 | 周遊紀行 / 関東地方
2011年 2月 6日(日)
小田原城を後にして「小田原梅祭り 曽我別所梅まつり」へ行き来ました
広大な敷地に沢山の梅の花が咲いていて綺麗でした



曽我の里に位置する曽我梅林は、別所、中河原、原の3地区で構成されており、各地区の農家が中心となって運営しています。別所会場は、最も梅林・お土産もの売り場・飲食・駐車場などの施設が充実しているとのことです。









曽我別所梅まつりホームページより抜粋。
「梅祭りと梅林の歴史」
神奈川県小田原では今から約600年以上も昔、北条氏の時代に梅の実を兵糧用にするため、城下に多くの梅の木が植えられました。それが江戸時代には、小田原藩主の大久保氏により梅の栽培が奨励され急速に増えました。さらに、箱根越えの拠点としての宿場町として、旅人の必需品(弁当の防腐、のどの渇きを癒す、健康食品)としても梅干が重宝されました。その小田原の中で曽我梅林では、食用の梅を生産するとともにその花の美しさ、可憐さ、高貴さを楽しんでいただきたく、約40年ほど前に地元農家が実行委員会を作り、梅祭りを開催するに至りました。曽我梅林は、中河原・原・別所(当地)の各梅林からなり、約35,000本の白梅が植えられています。食用梅の生産が目的のため、その殆どが白い花の白梅になっています。

この日、出発前に宿泊しているホテルで新聞を読んだら
ちょうど「梅の花」について書かれていたので嬉しくなった

「天声人語」(朝日新聞 2011年2月6日(日)より)
四季に恵まれたこの国に、花木を鑑賞して楽しむ言葉が色々とある。たとえば桜は花見と言い、秋には紅葉狩り、そして梅なら探梅である。〈 探梅や遠のき昔の汽車にのり 〉山口誓子。これは、記憶の中に開く花一輪であろうか。梅は寒さのきわまる時節、百花にさきがけて咲く。その早咲きを山野に探すのが言葉の意味だという。だから冬の季語で、立春を過ぎれば観梅に変わる。探梅は「一輪ほどのあたたかさ」をいとおしみ、観梅は盛りの色香を愛(め)でるといったところか。微にして妙な季節の移ろいである。とはいえ梅見は、華やいで浮かれる花見とは趣が違う。ゆるやかに歩を進め、咲き姿を楽しむ。陽気に誘われるというより寒さの中へぱちりと開く紅白には、どこか励まされ、背筋の伸びる思いがする。そんな梅が、学問の神様の天神様のシンボルのもよくできている。りりしい梅に願をかける。晴れて合格すれば春がきて「サクラサク」と相成る。桜の「いいとこ取り」のような気もするが、そこは凛然(りんぜん)と艶然(えんぜん)。使い分ける花に恵まれた幸せだろう。きのう、受験生の聖地、東京の湯島天神を訪ねたら、名高い白梅はまだちらほらだった。伊豆の熱海など暖地ではもう見頃らしい。便りを聞けば、清らかな鼻腔(びくう)によみがえる。〈 春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やはかくるる 〉と古今和歌集にある。闇が花を見えなくしても香は隠れない、と。その香によって花の存在は知られる ー 。容色を誇る桜と違う奥ゆかしさが、早春と呼ぶ季節にふさわしい。



梅の花を楽しめた早春の小田原の旅でした
S2000 ODO 124,320km

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2011年 S2000ぶらり旅「小田原/小田原城 編」

2011年02月06日 | 周遊紀行 / 関東地方
2011年 2月 6日(日)
横浜を出発して小田原へ向かいました。
最初に到着したのが小田原城。
城内にはちらほらと梅も咲いていました。


北入口の駐車場が今年の1月をもって閉鎖したのと
近くの競輪場で競輪が開催されていたので
付近は道に慣れていない観光客で大渋滞でした
どうにかこうにか有料の駐車場を探し出して車を停める事ができました
小田原市には何とかして欲しいものです

天守閣の最上階に上ったら。。。
雲っていたので真っ白でした(笑)
天気が良いと富士山や三浦半島など見えて
見晴らしが良いらしいです

以下、パンフレットより。
小田原城
15世紀中頃に大森氏が築いた山城が前身で、その後戦国大名北条氏の居城となってから、関東支配の拠点として次第に拡張され、豊臣秀吉の小田原攻めに備えるために築造された、城下町を囲む9kmにおよぶ総構(そうがまえ)の出現により城の規模は最大に達しました。北条氏滅亡後徳川家康の家臣大久保氏が城主となると、城は改修され近世城郭の姿になります。大久保氏改易後に城は破却されますが、寛永年間に稲葉氏が城主になると、再び改修工事が実施され城の姿は一新します。大久保氏が再度城主となりますが、元禄16年に発生した地震により天守をはじめ城内の各施設はほぼ倒壊焼失してしまいました。その後、本丸御殿等を除き再建され幕末にいたります。明治3年小田原城は廃城になり、売却された後次々と解体されました。城址は御用邸時代を経て地元自治体に払い下げられて現在にいたっています。また国指定史跡に指定され、今も整備が続けられています。

天守閣
江戸時代に造られた雛形や引き図を基に昭和35年に復興されました。3重4階の天守に付櫓(つけやぐら)、渡櫓(わたりやぐら)を付しています。なお、最上階の高欄(こうらん)付き廻縁(まわりえん)は復興に際して新たに付けられたものです。内部には甲冑・刀剣・絵図・古文書など、小田原の歴史を伝える資料や、武家文化にかかわる資料などが展示されています。




常磐木門(ときわぎもん)
小田原城本丸の正門にあたり、最も大きく堅固に造られていました。周囲の多門櫓(たもんやぐら)と渡櫓を配した枡形門(ますがたもん)の構造を持ち、そばにある巨松(おおまつ)になぞらえてその名が付けられたと言われています(昭和46年復興)。

S2000 ODO 124,311km

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