S2000奮闘記

スポーツカー偏愛録。
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Book / 真田太平記(七)、(八)

2011年02月13日 | 雑記
真田太平記(七)関ヶ原
背表紙より。
「会津出陣中の徳川軍団から離れ上田に帰った真田昌幸・幸村は、ただちに城の守りを固める。家康は息子秀忠に中山道をゆく第二軍を率いさせ、真田信幸に先陣を命ずる。秀忠軍四万を上田城に迎えうった真田父子は、様々な謀略を使ってこれを釘づけとし、ついに関ヶ原の決戦に間に合わせなかった。真田父子が徳川軍の約半分を削いだにもかかわらず、結束のはかれぬ西軍は家康に敗れる。」

真田太平記(八)紀州九度山
背表紙より。
「真田昌幸・幸村のために関ヶ原の決戦に間に合わなかった徳川秀忠は、家康から痛烈な叱責をうける。家康は真田父子に切腹を申しつける決意でいたのだが、真田信幸の舅で徳川家譜代の重臣・本多忠勝の戦も辞さぬ助命嘆願に屈して紀州九度山に蟄居させられることとなる。わずかの家来だけをつれて九度山に移った父子は「関ヶ原の戦い」が再びおとずれる日を夢見て孤立した日々をおくる。



真田太平記(五)、(六)
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