妹が各務原(かかみがはら)に縁があって、その分各務原へ行くことが多かった訳です。
その各務原に行くには、すぐ裏の木曽川堤(お囲い堤)を川上へ(東)約15キロほど行くわけですが、途中愛岐大橋で木曽川を渡り(岐阜県へ)河畔を少し離れると、畑の土が黒くなって来るのが気がつきます。そして畑一面に人参が栽培されているのに興味というか関心を持つようになりました。
74歳でパソコンを覚え、79歳でブログを投稿するようになってから・・・、周囲の色々の些細な物事(景色)に目を向けるようになり、写真を撮るようになっていました。「まあ~ブログのネタにでもにでもならないか!」の思いもあったのも事実で、今もその感覚は心の底にあるようです。
野菜作りが好きな関係か?黒い土で広大な人参畑には興味があって、投稿できないかと考え各務原の図書館へ2度3度とかよいました。
此処が「各務原台地」という名称である事、黒い土は「クロボクド」と言い・・・御嶽山噴火の時の「火山灰」であることが解ってきました。3年余前から機会があるごとに写真を撮り、投稿に挑戦しましたが、所詮素人で・・・何度もパソコンに写真を並べて思案しましたが果たすことが出来ませませんでした。
「地質学に通じていないと駄目!」と云った思いで諦め・・・写真だけ暖めてきました。が、ここで思い切って投稿しようと考えました。しかし今回も写真を並べてだけで三日間も”にらめっこ”していた末の投稿ですから、未熟ですが、お許しを・・・。
各務原市の市街地は,木曽川の北岸にそって現在の河床面よりも5~10mほど高い各務原台地と呼ばれる台地の上に広がっている.この台地は東西約10km,南北約5kmの広がりをもち,西に向かって低くなっており,これも濃尾傾動運動の影響である.この台地を作っている地層は各務原層と呼ばれ,古い木曽川が運んできた土砂によって作られたもので,その主体をなす砂礫層はおもに粗い砂からなり,いろいろな種類の礫を含む堆積物であるが,その中にオレンジ色の御嶽火山起源の軽石を含むことを特徴としている.これは,6万~10万年前の時期に御嶽火山で活発な火山活動があり,山麓に堆積した大量の軽石が当時の木曽川によって運ばれてきたものである.この各務原層は間氷期の堆積物であり,その次の氷期になって河口の位置が下がったことで台地の南端と東端が削られて段丘が形成された.それは各務原層からなる上位の段丘面と浸食された当時の河床面に堆積した河床礫層からなる下位の段丘面からなる.これら両方の段丘面を上流から流れてきた木曽川泥流が覆っており,その年代は約5万年前である.
氷河期の期間中にもより寒冷な時期とより温暖な時期がある。より寒冷な時期が「氷期」、より温暖な時期が「間氷期」と呼ばれている。氷期には、より多くの氷が作られて海面が低下し、間氷期には、その氷がとけて海面が上昇する現象が伴うとされる。(インターネットから)
東西約10km,南北約5km 、1,900haの土地は一見黒土で農業に適しているようですが、強い酸性土壌の未開拓地で明治時代陸軍の演習地や草刈り場となっていました。近代土壌改良されて人参産地となっています。
木曽川の北岸にそって現在の河床面よりも5~10mほど高い各務原台地は、一見断層に見える上位の段丘面(竹藪)と下位の段丘面(農地)なっています。上位の段丘地は、現代は一部宅地や商業用地、工業用地として利用されています。
上図の上位の段丘面(竹藪の)のクロボクドと粘土状の土です。
クロボクド ねんど状の土
オレンジ色の土? グリ石
上位の段丘面から、代表的な石と砂を採ってきました。これを詳しく解析することは私には出来ません。
下位の段丘地は、農業用地として利用されていますが、近年「じゃり砂」採取のため(コンクリート用)深い穴が掘られています。(上2枚の写真)(クロボクドは、取り除かれて、山土で穴を埋めた後、クロボクドが戻されて農地に戻る)
深さ10mぐらいで、各務原層と呼ばれ,古い木曽川が運んできた堆積層を幾重にも見ることが出来ます。御嶽の火山灰と言われるクロボクドが、約1m位あって土と石で幾重にもの層が形成されていることが解ります。専門的なことは全く解りませんが、10万年かそれ以上の年代の木曽川と御嶽山の噴火の歴史が解るのではないか??そんな気がする貴重な写真かもしれません。
古代御嶽山は、富士山に匹敵する高さの成層火山であったと推測されるようです。度重なる大爆発によって崩壊した土砂は土石流となって木曽川を200Kも流れ下り、岐阜県各務原市の各務原台地が形成されたようです。
その古代の荒々しさを想像する事さえ出来ませんが、9月27日の御嶽山の噴火は、その片鱗を見せたような気がします。