今回の京都行きは、結果3泊4日になりました。が、京都行きの主目的は観光ではなくお手伝いでした。具体的には庭の手入れと、店がイベントを開くために曾孫の”お守り”でしたが、それを”こなした”上で時間を見つけて奈良の二つの寺を散策しました。すでに今年5月に平城宮大極殿は見学していましたが、今回は京都の駅を降りたときから”平城遷都1300」年祭”の雰囲気を肌身に感じ、奈良の各寺も参加して”特別公開”していることも知っていましたから、庭の手入れも、子守りも手を抜かずに且つ「興福寺と薬師寺」を時間を見つけて2回に分けて見学してきました。近いんです!!
昨年11月娘の家の生垣が無惨な姿になり(写真○印右)取り払って赤芽樫苗で作り替えました。(写真○印左)1年経ってその生垣を剪定して、写真のように整えました。完成までに3~4年かかると思います。
興福寺 散策
私が初めて奈良へ行ったのは四歳の時でした。祖母と一緒に大阪の叔父に連れられて、奈良公演で写真を撮るとき、鹿が寄ってきて怖かった事だけを覚えています。以後これまでに10回近く奈良へは行っていますが、興福寺だけは行った事がありませんでした。
奈良公園の樹海から高く聳え立っているのが興福寺の五重の塔で”本堂が無い寺”程度の知識でした。しかし、近年{是非行ってみたい!!」という思いを強くしていました。23日(土)お昼を中心に5時間ほど余裕ができて行ってきました。
興福寺は藤原氏の氏寺として計画」されました。710年平城遷都から程なくして中金堂が建立され、721年北円堂、726年東金堂、730年五重塔、734年、西金堂、746年講堂と大伽藍が形成されていきました。しかし、興福寺は、じつに火災の多い寺で、中金堂の罹災は7回にも及んでいるようです。その都度復興をとげているのは藤原氏の絶大な権力があったからです。七回目の火災は1717年(享保2年)に発生しましたが、仮金堂が建てられたのみでした。現在、中金堂復元の工事中で近年巨大な中金堂が姿を現すようです。
JR奈良駅から市内循環バスに乗り、興福寺最寄りの県庁前バス停では3人しか降りませんでした。(バスは満員)興福寺へは裏手から入りましたが、観光バスがいっぱい来ていて、国宝館には長蛇の列が出来ていました。私は、先ず特別公開の東金堂と五重塔から拝観しました。
東金堂(写真上)は、726年聖武天皇が叔母元正太上天皇の病気全快を願って建立。以来5回の被災を経て、この建物は1415年(応永22年)再建されました。(国宝)下は、内陣の薬師如来坐像と日光・月光菩薩立像です。この他に文殊菩薩・維摩居士、四天王、十二神将が祀られています。(国宝、重文)
釈迦の舎利を納めた五重の塔です。730年(天平2年)藤原氏の娘光明皇后建立。そのご5回被災、1426年(応永33年頃)再建されました。(国宝)
五重塔初層の東西南北に薬師三尊像・阿弥陀三尊像・釈迦三尊像・弥勒三尊像が安置されています。(写真左)
東金堂と五重塔です。(写真右)
阿修羅立像と三っの顔です。734年(天平6年・国宝)帝釈天との戦いの果てに武器を捨て、懺悔し、静かな面持ちでたたずむ、紅顔の美少年像でインド神話の神です。
日本で今一番有名で人気のある仏像と言っていいです。国宝館の長蛇の列がそれを現していました。
北円堂と本尊の弥勒如来坐像です。(国宝)北円堂は興福寺建立の祖藤原ふひとの菩提のために、720年(養老4年)建立されていますが、ここも2回の被災に会い、1207年(建永2年頃)再建されています。弥勒如来の他に法苑林菩薩・大妙相菩薩、無著・世親、四天王が祀られています。
南円堂と本尊の不空けん索観音菩薩坐像です。(重文・国宝)南円堂は813年(弘仁4年)に建立されましたが、ここも4回の被災にあっており、1717年(享保2年)再建された堂です。不空けん索観音菩薩坐像の他に法相六祖、四天王が祀られています。
興福寺では鎌倉時代の奈良を代表する多くの仏像に圧倒されました。ここではその一部しか発表できませんでしたが、フォトチャンネルに挑戦してみようと思っています。しかし、拝観が終わって外(境内)へ出てみると、他の寺と違って「なんか淋しい、空虚な雰囲気みたいな物を」感じていました。
家へ帰って調べて見ると、本来創建された当時の興福寺は、心も形も整った天平の寺院だったようです。しかし他の寺にない度重なる伽藍の焼失と復興の歴史があり、それが江戸時代になると(享保2年以降)復興事業が進まなくなり、明治時代になると”神仏分離政策”により寺の運営も混乱し、それに社寺領を没収され奈良公園に組み込まれて、天平の雰囲気などを失われた形状になったようです。
中金堂も復興されるようですが、出来るだけ早く天平寺院の形状が再現されて、日本人ばかりでなく世界の人が来てくれるよう念願しています。
昨年11月娘の家の生垣が無惨な姿になり(写真○印右)取り払って赤芽樫苗で作り替えました。(写真○印左)1年経ってその生垣を剪定して、写真のように整えました。完成までに3~4年かかると思います。
興福寺 散策
私が初めて奈良へ行ったのは四歳の時でした。祖母と一緒に大阪の叔父に連れられて、奈良公演で写真を撮るとき、鹿が寄ってきて怖かった事だけを覚えています。以後これまでに10回近く奈良へは行っていますが、興福寺だけは行った事がありませんでした。
奈良公園の樹海から高く聳え立っているのが興福寺の五重の塔で”本堂が無い寺”程度の知識でした。しかし、近年{是非行ってみたい!!」という思いを強くしていました。23日(土)お昼を中心に5時間ほど余裕ができて行ってきました。
興福寺は藤原氏の氏寺として計画」されました。710年平城遷都から程なくして中金堂が建立され、721年北円堂、726年東金堂、730年五重塔、734年、西金堂、746年講堂と大伽藍が形成されていきました。しかし、興福寺は、じつに火災の多い寺で、中金堂の罹災は7回にも及んでいるようです。その都度復興をとげているのは藤原氏の絶大な権力があったからです。七回目の火災は1717年(享保2年)に発生しましたが、仮金堂が建てられたのみでした。現在、中金堂復元の工事中で近年巨大な中金堂が姿を現すようです。
JR奈良駅から市内循環バスに乗り、興福寺最寄りの県庁前バス停では3人しか降りませんでした。(バスは満員)興福寺へは裏手から入りましたが、観光バスがいっぱい来ていて、国宝館には長蛇の列が出来ていました。私は、先ず特別公開の東金堂と五重塔から拝観しました。
東金堂(写真上)は、726年聖武天皇が叔母元正太上天皇の病気全快を願って建立。以来5回の被災を経て、この建物は1415年(応永22年)再建されました。(国宝)下は、内陣の薬師如来坐像と日光・月光菩薩立像です。この他に文殊菩薩・維摩居士、四天王、十二神将が祀られています。(国宝、重文)
釈迦の舎利を納めた五重の塔です。730年(天平2年)藤原氏の娘光明皇后建立。そのご5回被災、1426年(応永33年頃)再建されました。(国宝)
五重塔初層の東西南北に薬師三尊像・阿弥陀三尊像・釈迦三尊像・弥勒三尊像が安置されています。(写真左)
東金堂と五重塔です。(写真右)
阿修羅立像と三っの顔です。734年(天平6年・国宝)帝釈天との戦いの果てに武器を捨て、懺悔し、静かな面持ちでたたずむ、紅顔の美少年像でインド神話の神です。
日本で今一番有名で人気のある仏像と言っていいです。国宝館の長蛇の列がそれを現していました。
北円堂と本尊の弥勒如来坐像です。(国宝)北円堂は興福寺建立の祖藤原ふひとの菩提のために、720年(養老4年)建立されていますが、ここも2回の被災に会い、1207年(建永2年頃)再建されています。弥勒如来の他に法苑林菩薩・大妙相菩薩、無著・世親、四天王が祀られています。
南円堂と本尊の不空けん索観音菩薩坐像です。(重文・国宝)南円堂は813年(弘仁4年)に建立されましたが、ここも4回の被災にあっており、1717年(享保2年)再建された堂です。不空けん索観音菩薩坐像の他に法相六祖、四天王が祀られています。
興福寺では鎌倉時代の奈良を代表する多くの仏像に圧倒されました。ここではその一部しか発表できませんでしたが、フォトチャンネルに挑戦してみようと思っています。しかし、拝観が終わって外(境内)へ出てみると、他の寺と違って「なんか淋しい、空虚な雰囲気みたいな物を」感じていました。
家へ帰って調べて見ると、本来創建された当時の興福寺は、心も形も整った天平の寺院だったようです。しかし他の寺にない度重なる伽藍の焼失と復興の歴史があり、それが江戸時代になると(享保2年以降)復興事業が進まなくなり、明治時代になると”神仏分離政策”により寺の運営も混乱し、それに社寺領を没収され奈良公園に組み込まれて、天平の雰囲気などを失われた形状になったようです。
中金堂も復興されるようですが、出来るだけ早く天平寺院の形状が再現されて、日本人ばかりでなく世界の人が来てくれるよう念願しています。