2月6日大阪カメラ教室の帰路奈良西大寺に寄りました。昨年「平城宮遷都1300年祭」もあって平城宮大極殿・興福寺・薬師寺を訪れた時、次は是非西大寺を訪れたいと心に決めており、それが案外早く実現した訳です。
天平15年(743・奈良時代)建立された東大寺に対する西大寺として、平城宮西側に天平神護元年(765)建立されました。奈良時代には薬師金堂・弥勒金堂・四王堂・十一面堂・東西に五十の塔などが立ち並ぶ壮大な伽藍が配置されて、これら諸堂には密教系の仏像を含め多数の仏像が安置され、薬師金堂には21体の弥勒金堂には77体の仏像が安置されてその威容を誇っていたそうです。
奈良時代とは、和銅3年(710)元明天皇が平城宮に遷都してから、延歴13年(794)桓武天皇によって平安京(京都)に都が遷されるまでの84年間ををいいます。
平城宮は、中国の都長安を模して造られ、日本国内の実情に合うよう政治改革が行われ、遣唐使を多く送り、大陸の文化を導入して天平文化が開花し、「古事記」「日本書紀」「万葉集」など日本最古の史書・文学が登場した時代でした。
しかし 中央では政争で政変・乱が多く起こり奈良時代は短期で終わったようです。
奈良時代の仏教は、鎮護国家の思想とあいまって国の保護下におかれて発展し、法会や祈祷が盛んにおこなわれました。政府は平城宮内に大寺院を建立し「奈良四大寺」平安時代には「南都七大寺」(大安寺・薬師寺・天興寺・東大寺・西大寺・興福寺)の僧侶は、教理を研究して宗派が形成されていきました。遣唐使で留学したり、外国出身の僧侶の渡来によって仏教は発展しました。
しかし 西大寺は平安時代に入ると、火災など災害で多くの塔堂が失われて衰退して興福寺の支配を受けます。しかし 鎌倉時代の僧・叡尊興正菩薩(1201~1290)によって復興され、真言律宗の根本道場として伽藍が整備されました。現在の西大寺はほぼこの頃のプランを伝えているようです。その後、室町時代の元亀2年(1502)兵火による大きな被害を受けて、現在の伽藍はすべて江戸時代以降の再建されたものです。
本堂 光明真言堂とも言い、土壁を施さない総板壁の特異な建物です。
本尊 釈迦如来立像 京都嵯峨清凉寺の「三国伝来の」釈迦如来像」(インドー中国ー日本)を模した霊像。
塔跡 奈良時代には東西両塔が建てられましたが、その東塔跡です。創建当初のものはともに平安時代に焼失、東塔は藤原後期に再建されますが、室町時代の文亀二年(1502)に焼失しています。
本堂を光明真言堂と言われる所以を肌身で感ずる荘厳さでした。
四王堂 江戸時代の延宝2年(1674)再建されて、四天王が祀られています。
持国天・増長天・広目天像が銅造で鎌倉時代、多聞天像は木造で室町時代作と言われています。
(後はフォトチャンネルで~)
昨年11月から今年2月にかけて「平城宮遷都1300年祭」もありましたが、奈良時代の代表的な寺院、興福寺・薬師寺・西大寺を訪れることが出来ました。
奈良時代の仏教は国の手厚い保護を受け、 裏返せば時の権力者がかかわって興隆と衰退の歴史があったようです。
あおによし 奈良の都は 咲く花の におうがごとく いまさかりなり
このうたに代表されるように、奈良時代は政治的改革が行われると同時に天平文化が花開いた時代でしたが、政界では権力者による血なまぐさい争いが絶えなかったようです。
振り返って日本の今の政界をみると、血こそ流れないけれど奈良時代の乱に似ている・・・言論の自由はあるけれども、政治家の論争でも聞くに堪えない誹謗中傷の連続で、政権をとった場合の日本のリーダーとは思えない・・・人格を感じます?。
目を外に向けると、北アフリカでは長期独裁政権が、改革を叫んで血を流している・・・、世界は、1300年前の奈良時代と少しも変わらない・・・ 政争は政治家の特権だろうか・・・歴史から人類は学べないだろうか・・・そんな思いが去来します。