江南市宮田神明町の氏神『大明神社』拝殿石垣に『家紋模様石』が組み込まれています。この拝殿は、昭和12年頃(1938)建立されたといわれていますが、過去70年余にわたり地域住民に深く認識されることもなく過ぎてきていました。
しかし、昨年10月『秋季例祭』の際、他所の郷土史家の来訪を受け「全く、由来などなどについて返答すること出来ず・・・」今回、微力ながら調査・検証することになりました。
拝殿石垣の側面に組み込まれた『家紋模様石』です。
東側の『左重ね三つ巴紋』です。 西側の『梅鉢紋』です。
小さな町の氏神に、このような石組があることは大変珍しい事と考えて調べ始めました。先ず図書館へいって、家紋で『左重ね三つ巴紋』と『梅鉢紋』にたどりつくのは容易でしたが、疑問を解く原則「何時、たれが、何処で、どうしたか」を辿っていくのに大変な苦労をしました。
結局、明確な回答を得られないまま、推測を交えて纏め投稿することにしました。
大明神社の由来
この地方に人が住みついたのは、古墳時代(3~4世紀)と言われています。神明地区も人が住みついたのは定かでありませんし、神が祀られたことも不詳とされて居ます。
尾張藩の「寛文覚書(1661~1673)」に「宮田村に大明神と天王社あり」と記されています。今の神明地区を指していると思われます。が、翌延宝年間(1674~1680)木曽川の氾濫により社殿が流失したと言い伝えられており、数年後の元禄2年(1689)に再建されたと伝えられています。今の大明神社のある木曽川沿いの地点であったと推測できます。
神明地区では、北の木曽川沿いの「大明神」と、地区南方にあたる八幡の森に「八幡社」が祀られていました。ここも 創立年は不詳とされていますが、「寛文覚書」の記録から「大明神」よりも遅い創立と推測されます。
それを証明する燈籠が一対ずつ残っています。
八幡宮 天保7年11月(1836) 大明神 寛政4年11月(1792)
八幡宮の燈籠が大明神より44年遅く建立されていますが、地域北方木曽川沿いに「大明神」を氏神とする一族と、地域南方に「八幡社」を氏神とする一族の”二つのグループ”があったと考えられます。
八幡宮の燈籠の年号、天保7年の約30年後には徳川幕府は「大政奉還」して明治の新時代を迎えます。封建的な幕藩体制から脱却して近代国家目指すには、明治政府は神道を国家統合の基幹にしようと意図して政策がすすめられました。
明治政府の神仏に関する主な政策
l 神仏分離令 (慶応4年3月発令~明治元年12月廃止)
l 郷社・氏子調令 (明治4年7月発令~明治6年廃止)
l 神社合祀令 (明治39年発布)
神仏分離令は、”廃仏毀釈”運動につながり混乱を招き、郷社・氏子調令は不評で共に早期に廃止されましたが、「一村一氏神」の形態は定着していきました。
しかし、一族の氏神信仰はそのままで明治政府は、税の支出を抑えるため明治39年神社合祀令により明治42年に八幡社と大明神は合祀されています。
それを証明する碑が残されています。
明治42年10月吉日建立 明治42年10月吉日建立
二つの碑は、神社正面前方の左右に建てられています。ここで注目すべきは「春日大明神」の碑です。確か江戸時代は「大明神」であったはずです。とすると、明治4年の郷社・氏子調令で一村一氏神が奨励された時期に「村社・春日大明神」になったと考えるのが至当のようです。
且つ、両神社の名称を使わず「大明神社」としたのは『対等合祀』の証と考えます。
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