日本庭園こぼれ話

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富岡製糸場——日本の近代化の原点

2013-09-26 | 番外編

明治維新直後、日本の近代化に向けて政府が掲げた重点施策が「富国強兵・殖産興業」。当時、生糸の輸出は、外貨獲得のために重要な手段でしたが、品質向上が求められ、政府は明治3年、模範となる官営製糸工場の建設に着手します。それが富岡製糸場です。

工場建設の指導者として招かれたのは、フランス人のポール・ブリューナ。日本各地を視察した結果、様々な要件を満たす最適地として選ばれたのが、ここ上州富岡の地でした。

上越線と信越線の分岐点、高崎駅から西に延びる上信電鉄に乗り、約40分で上州富岡駅に到着。駅からは徒歩で約10分。市街地を抜けると、前方に巨大なレンガ造りの建物。それが「富岡」の名を一躍、全国区にした製糸場です。

(上: 富岡製糸場の正面入り口)

建物は、日本の木造建築と西欧のレンガ造りを合わせた和洋折衷様式。木材で骨組みをつくり、その間にレンガを積む「木骨レンガ造(ぞう)」という工法が採用されました。

(上: 和洋の技術を調和させた木骨レンガ造)

必要な資材である材木や、礎石となる石材は、近隣の山々から調達できたものの、数10万個を要したというレンガは、ブリューナが瓦職人を指導して焼かせたそうです。レンガの目地には、セメントの代用として漆喰が使われました。

こうして明治4年、建設工事に着手、そして翌年7月には完成という、大変な突貫工事により、明治5年(1872)10月、わが国初の官営製糸場が操業を開始したのでした。フランス製の300人繰りの繰糸機械を備え、各府県から集められた工女の数、約400人という、当時世界最大規模の工場だったそうです。

(レンガの色彩が美しい、富岡製糸場のシンボル・東繭倉)

門の先、正面に見えるのが長大な「東繭倉」。建物の長さは104メートル。木骨レンガ造で、切妻造り2階建ての桟瓦葺き。基礎部分には石材が使用され、レンガは、長手と小口を交互に積んだフランドル積み(フランス積み)と呼ばれる手法。レンガ造りの美しさを再認識すると同時に、積まれたレンガの数に驚かされます。

 

(上: 最もレンガらしく美しいと言われる「フランドル積み」)

そして、ムラがあるレンガの色には、瓦職人たちが、にわか仕込みの技術で、大わらわで焼き上げた当時の様子が垣間見られます。

東繭倉中央には、中庭に抜けるアーチ状の通路があり、上部のキ-ストーンには「明治五年」の文字が刻まれています。

(上: アーチ上部に「明治五年」の文字)

アーチをくぐると、広場をはさんで、突き当たりには、これまた長い建物が横たわっています。「西繭倉」で、東繭倉と同じサイズ、同じ構造。

 (上: 西繭倉)

 

 (上: 富岡製糸場の建物は、とにかく長い!)

東西に延びる2つの繭倉を結ぶかのように、南北に横たわる建物が「繰糸場」。この建物の長さは、なんと140メートル。

(上: 繰糸場の概観)

繰糸場の建物は、当時としては珍しい、柱を一切使わないトラスト工法が採用され、側面のほとんどは、採光のためのガラス窓になっているので、明治初期の建築とは思えないモダンな印象。そこにずらりと並んだ繰糸器械を目の当たりにすると、その規模の大きさが実感されます。

(上: 繰糸場はトラスト工法の小屋組を持つ)

それにしても、維新からわずか5年にして、この施設を完成させたとは。近代国家へとばく進する明治初期の日本人のエネルギーが伝わってくるようです。

(上: コロニアル様式のブリューナ館)

現在、世界遺産への登録に向けて、気運が高まっていますが、それはさておいても、「繰糸場」、「東・西繭倉」、ブリューナとその家族が住んだ「ブリューナ館」を含め、主要な建物が当時のままの状態で良好に保存されていることから、産業遺産としての貴重な施設だと思います。

* 追記=2014年、「富岡製糸場と絹産業遺産群」として、世界遺産に登録されました.。また、建設に貢献した重要人物の一人に、今、話題の渋沢栄一の名があります。

※ 高崎から上州富岡に行く途中には、名勝庭園・楽山園のある甘楽町があります。何年か前の訪問記ですが、興味のある方は、ブログの2012年1月23日、27日付けの『城下町・小幡散策と名勝庭園・楽山園(1)(2)』をご参照下さい。 


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