日本庭園こぼれ話

日本の歴史的庭園、街道、町並み。思いつくままに
Random Talks about Japanese Gardens

大石武学流庭園再録(1)・・・清藤氏書院庭園

2014-05-08 | 日本庭園

このブログでは、主に日本の古庭園を中心にご紹介していますが、私が特にご紹介したかったのが、地方の名園です。これらの庭園は、京都の造庭技法の影響を受けながらも、土地の風土に育まれ、その地方に独自の技法と庭景を創出しているからです。

津軽地方に開花した「大石武学流」庭園もその一つであり、このブログの初期にもご紹介しているのですが、興味を持ってくださる方が多いので、「再録」ということで、もう少し詳しくご紹介していきたいと思います。

大石武学流庭園は、青森県弘前市を中心に津軽地方の各地に数多く点在しているとのことですが、代表作と言われている庭園が「清藤氏書院庭園」「盛美園」「瑞楽園」の三庭で、かなり早い時期に、国の名勝庭園に指定されています。

 

弘前駅から弘南鉄道で30分ほどの「津軽尾上駅」から歩いて約10分のところにある「清藤氏書院庭園」と「盛美園」は、どちらもこの地方の名家・清藤家の庭園で、隣接しています。

(上: 清藤家本邸のたたずまい)

「清藤氏書院庭園」は、清藤家本邸の庭園です。常時公開している庭園ではありませんが、私が訪ねた時は幸い、清藤家のご当主が在宅で、お話を伺うことができました。それは鎌倉時代に遡る清藤家の歴史から始まりました。

鎌倉時代、執権北条時頼の寵姫・唐糸御前は、周囲の女性たちの嫉妬に耐えかねて鎌倉を去り、故郷の津軽に戻ることを決意。その時、時頼の命により唐糸御前に随行してやって来たのが、清藤家の祖・清藤盛秀でした。そして後日談として、唐糸御前の悲話があり、盛秀は自邸に祠をつくりその霊を祀ったということ。

時代が下り、江戸時代の初めに津軽に配流となった京都の公家・花山院忠長卿が、清藤家に滞在した折、唐糸御前の悲話に感銘を受け作庭、その後、京都の茶人・野本道玄(道園とも)が手を加えたのが、今に伝わる清藤家庭園の下地になっているということです。

(上: 清藤氏書院庭園の主景。後方に瀧石組が見える)

江戸時代末期の作庭とされるこの庭が、大石武学流の源流とも評されているのは、こうした背景によるものです。

現在ある庭園は面積約180坪。書院に面した平庭枯山水庭園。対面すると。大石武学流の特徴である巨石による豪快な石組が目の前に。特に左手奥に組まれた枯瀧石組と枯流れの造形が見事です。

(上: 枯瀧の豪快な石組)

よく見ると、直立する二石の瀧石の間から、その背後に配された立石がもう一つ垣間見えます。それは「遠山石」と呼ばれるもの。遠くの山の景を庭に取り込んで、庭に奥行き感を持たせる借景の手法と同様の役割を、ここではこの一個の石が果たしているのです。

(上: 瀧石の奥に、遠山石が垣間見える)

日本庭園には、このような「見立て」の手法がしばしば用いられますが、この庭ではもう一つの「見立て」に注目です。庭の正面に二基の石燈籠が、距離を置いて並び立っています。どちらも火口は三日月形ですが、その角度が少しずれている。そこに月という天体の運行を思い描く。そうすると、この限られた庭空間が、一気に、無限の広がりをもつ宇宙空間に昇華するのです。

(上: ここでは「見立て」の効果が存分に生かされている)

気づかなければ、それまでのこと。しかし造る人の感性と観る人の感性が合致することによって、日本の庭は、ますます深みが増すことを思い知らされました。

ご当主の話によると、この本邸庭園は、明治5年、道路敷設のために面積を大きく削られたとのこと。当時20代だった清藤家24代当主・盛美氏は、後に「盛美園」をつくることになるのですが、その心の中には、広々としていたかつての庭をなつかしむ気持ちがあったのではと、ご当主は思いを巡らすのでした。

 

* 公開日、拝観料などについては、公式HPをご参照ください

 

 

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿