弟からメールが届きました。
「陸橋(国道140号線)去年から解体工事が始まり、ほぼ解体が終わりました。
車で国道を走ると武甲山の見え方が全く違い、三峰方向まで見えるのが新鮮な驚きです」
と。
子どもの頃から、慣れ親しんでいた、国道にかかっていた陸橋がなくなった。ちょっとショックです。
そのメールに弟が、陸橋ができた頃、父に抱っこしてもらい陸橋を見ている写真を、今でも記憶の中に大事にしまっています、と書いてありました。
弟は3人姉弟の、末っ子で初めての男の子。
父はいつも「やさしすぎるくらい、やさしい子だ」と、弟を可愛がっていました。弟はケンカも争いも嫌い。そして、誰にでもやさしく気遣いしながら生きる。大人になっても、本当にやさしい人です。
車が趣味で、フォルクスワーゲンやスポーツカー。何種類もの車に乗っていました。
建築家ですから、車だけではなく、家のデザインにもインテリアにも、美意識が込められています。甥っ子の美意識は、父親譲りだったのだろうなと思います。父親に愛され、彼はその父親を尊敬しています。
逆に、小さい頃の弟は、いつも母親にくっついている母親っ子だったので、父との男同士というのは、難しさがあったのかもしれません。
「父の思い出が、自分の中にはあまりない」と以前、弟が言っていた話を思い出し、やっと身近に感じてくれたのね、とうれしい気持ちになりました。
この陸橋の下あたりに、昔(今はないでしょうが)利根川さんという大きな養鶏場があって、小学生の頃、毎朝、そこに産みたての卵を買いに行くのが私の役割でした。
養鶏場の裏からの、木戸をあけた瞬間、庭に放し飼いになっていた、鶏が飛んだり、走ったりして、こちらに突進してきます。
それだけで、私は、怖くて、卵買いの、役割を姉にバトンタッチしてもらいました。
そして、野村さん(このお宅もあるのかどうか?)という家の牛の搾りたての牛乳を、一升瓶みたいなものを持たされ、自転車で買いに行く役割に変えてもらいました。
まだ暖かい、ミルク色の一升瓶を、風呂敷に包んでくれ、それを自転車のカゴに入れて、家に持ち帰りました。
だから陸橋は、あの養鶏場と私はダブルで記憶しています。
卵も牛乳も、事前契約をしていて、お金は後日、支払ったようで、私たちはその物だけを、いつも受け取って帰ってきました。スーパーなどない時代です。
弟が添付で送ってくれた、この写真。
ちょっと説明すると、左端が、武甲山。
もうこんなに削られて、昔の形ではなくなっています。
奥に見えるのが、三峰山。
武甲山の下あたりには、秩父セメント工場がありました。
でもそこもなくなり、去年の秋に、友人たちと会った時、連れて行ってもらったのが、セメント工場跡にできた、ショッピングセンター。
シネマなども入っています。
そして、三峯神社といったら、中学生の頃、友人と二人でいって、神社裏の野原を歩いていたら、オオカミの鳴き声を聞いたことがあります。
三峯神社からロープウエーで大滝に降りてきて、ここにきたら必ず買わなきゃダメと都市伝説のように言われていた「弥平まんじゅう」。
名物の茶まんじゅう屋さんです。
それを買いながら、オオカミの鳴き声の話をしたら「幻だ」と、一笑に付されました。
かつては三峰山にたくさんいた、ニホンオオカミは、すでに絶滅していると言われていました。でも私たちの耳には、確かに聞こえたのです。
そのオオカミの鳴き声と一緒に思い出に残っているのが、たまたま、野原を一人で歩いていた大人の男の人が、野原の池に落ちてしまい・・・。
びっくりして、二人で覗くと、浅い池だったようで、照れ笑いしながら、ずぶ濡れで池から出てきました。
シゲという友だちと、「オオカミの鳴き声を聞いたり、知らないずぶ濡れの人を見たり・・・」
「それにしても、あの人、なんだったんだろう。あのずぶ濡れ姿! トンマな大人だったよね〜」
秩父線の電車の中で思い出しては、ずっと笑い転げながら、また思い出しては顔を見合わせ、笑いながら歩いてきました。
シゲの家は、私の家からすぐでした。
シゲコ、どうしてるかな?
大人になって、世田谷の桜新町の弦巻に住んでいた頃、駒沢公園近くで
「ジュンコ!」と呼ばれて、振り向くと、シゲが立っていました。
意外な場所で、久しぶりに会って、私はただびっくり。
お子さんが、駒沢の国立第二病院に入院していると、いっていました。
それっきり。
思い出はカゲロウのようです。