太陽光発電シニア

太陽光発電一筋、40年をはるかに過ぎたが何時までも興味のつきない厄介なものに関わってしまった。

目のつけどころが

2022-10-03 07:27:13 | 日記
 安倍元総理の国葬で菅さんの友人代表としての弔辞を巡りネットが騒がしい。事の発端はTVコメンテーターの玉川徹氏が「広告代理店の演出」と発言したことだ。事実誤認だったと謝ったが処々の怒りは収まらない。いつものHモト氏とかお笑い芸人が怒っている。一般の人も憤慨しているようだ。TVという公器で確認もせずに批判した玉川氏は論外であるが怒るなら「何時も辛辣なコメントしている玉川さん、それもプロデューサーやディレクターの演出だったのですか」と切り返すくらいの余裕は欲しいところだ。「そうです菅さんの件もその演出の範囲内です。」とは絶対言わない。怒っている方々(誰とは言わないが)も日頃皆と違う異論を発信することで存在感を示しているのでは。コメンテーターも同じようなものである。
 本来は岸田さんは葬儀委員長として菅さんは友人代表として立派な弔辞であったとか内容に言及すべきであるがそれでは目立たない。偉い方が大きな場面、特に公式な場で行うスピーチには必ずライターが存在する。お忙しいお二人がパソコンで悪戦苦闘しながら時間内に収まるよう校正を重ねたとも思えない。ライターの人にこういう主旨で喋りたいと粗々のキーワードを並べればライターが全体の体裁を整えてくれるだろう。それを演出と呼ぶかどうかどうかである。自ら書く時間が無いこ、間違いがあってはならないので誰かが推敲する、だからと言ってあれは官僚(ゴーストライター)が書いた原稿ですからなどと言い訳する話は聞いたことがない。本人の口から出た瞬間にそれは発言者自身のものとなり、当然内容についての全責任を負う。100歩譲って裏方が居たとしてもあの弔辞は本人によるものである。それくらいは鋭い玉川さんも分かっているでしょう。どちらもそれなりに立派な弔辞だったではないですか。
 それより驚いたことがある。国葬という超公式弔事に「友人代表」という役回りがあったことだ。「議員代表」でもなければ「党代表」でもない。そうなると承認が必要だったからなのか。「公」に「私」が紛れ込んだような違和感があった。かってカリスマ経営者のスピーチライターを何度か務めた経験があり黒子の苦労は知っているつもりである。誰が書いたかではなく、誰が何を喋ったかという内容の問題である。黒子を臆測したり、それにまた怒りをぶつけるのは目の付け所が違うのではと思う。
 公の儀式ということで思い出したのは「英国王のスピーチ」というアカデミー賞もとった古い名作映画である。偉い方の公式の場でのスピーチはそれなりのドラマがある。何故かスピーチということで思い出した。安倍さんの国葬とエリザベス女王の国葬を比べて見るようなもので今回のことと関係はないことなのだが。取り敢えず無事終わった。1周忌は親しい方々でしめやかに執り行なった方が良いのではと思う。