高校野球も1、2回戦はまだ力の差があるところが当たったりするが準決勝近くなると熱戦が繰り広げられる。特定の高校を応援しているわけでもないが、言えることは応援すると必ず負けることである。何故か。負けている方を応援してしまうからである。例えば逆転されるとその回以降は負けているほうを応援してしまう。これでは勝つわけがない。判官贔屓かというとそうでもない。因みにウィキで判官贔屓を見ると「源義経に対して抱く。客観的な視点を欠いた同情や哀惜の心情」あるいは「弱い立場のものにあえて冷静に理非(道理に適っていることと外れていること)曲直(正しくないことと正しいこと)を正そうとせず同情を寄せてしまう心理現象」となっている。
判官を贔屓にするかと言うと判官と言う特定の相手ではなく対象は場面で変わる。最近はプロ野球を見る目もなんとなくそうなってきた。アンチジャイアンツだがボロ負けしていると、どうした頑張れとなってしまう。同情が先立つという意味ではそうかも知れない。スポーツでハッキリ応援する側が決まるのはボクシングで外人と対戦する場合100%日本人を応援する。正確に言えば自分と何らかの繋がりがあると応援してしまう。この繋がりでも獏として理由が分からないのは「日本人」であるということだ。多分オリンピックでは必ず日本人を応援するだろう。勿論背景には「日本」という国がある。しかし最近は日本人だが混血の選手が色々なスポーツで活躍している。陸上で桐生とサニブラウンが対決する時どちらを応援するか。この場合は強そうな方となる。野生のパンダと人間が死闘を繰り広げていたら人間を応援する。この場合、可愛いという概念は応援にあまり影響しない。ジュラシックパークでは勿論人間側を応援する。人間と蟻が戦っていても人間側だ。弱そうだからと同情はしない。アメリカと日本が戦っていたら勿論日本だが、中国とアメリカならどうだ。劣勢側につく。あれこれ考えるとどうも勝ち馬に乗るという性分ではない。
振り返ってみると勝ち馬に乗れない性格は子供の頃から変わっていない。損か得かと言えば多分世間的には損の方が多いだろう。変えられるかというと多分短い一生の間では無理。意識して変えた訳ではないが思い起こせば性格が多少変わった場面は2度ある。1回目は小学4年の時、新しいクラスに大柄で乱暴者の子が居た。ある時教室の後ろで取っ組み合いの喧嘩になり、周りの者は体力的に圧倒的に弱い私が泣きだすと思っていた。しかし我慢を続けて格闘していると相手がしぶといやっちゃもうやめると言い出した。それまでの自分はイジメられると泣いていたような気がする。この時以来自分は結構強い、いや相手が誰であろうと負けないと自信になった。次は学生時代であろう。学生運動真っ只中でキャンパスでの暴力やデモが日常茶飯事、集会ではつるし上げという殺伐たる風景である。生き残るためには体力ではなく徹底的に理論武装することしか無かった。この頃から言い争いには負けないという自負が芽生えた。会社に入ってから、理不尽な出来事は山ほどある。大概は少数派の方に理があると思われた。勝ち馬は何処か分かっていたが乗れなかった。定年まじかの頃、ある後輩から××さんは勝ち組でしたよと言われた。何一つ思い通りに行かなかったサラリーマン時代だが他人から見ればそうだったのかと驚いた。残りの人生も勝ち馬に乗ることは無いと思うが、せめて他人には見破られないように生きようと思っている。