「サッカー文化フォーラム」夢追い人のブログ

1993年のJリーグ誕生で芽生えた日本の「サッカー文化」。映像・活字等で記録されている歴史を100年先まで繋ぎ伝えます。

「日本サッカーを変革した偉大な方」木之本興三氏逝去

2017年01月22日 17時07分45秒 | FIFA、サッカー協会
タイトルはセルジオ越後さんの「日本サッカーを変革した方」とトルシエ元監督の「偉大な方を失った」というお悔みの言葉をお借りしてつけました。

さる1月15日、元Jリーグ専務理事、元日本サッカー協会常務理事の木之本興三氏が逝去されました。68歳とのことです。

同じ時期に活躍された森健児氏は逝去を悼む手記で「2つの思い が交錯する。「まだ早い。70にもなっていないじゃない か」「よく頑張った。もう無理はするな」と述べておられます。

ご存知の方も多いと思いますが、木之本さんは若くして病魔に襲われながら、病気との壮絶な戦いを続け、Jリーグ設立をはじめ、日本サッカーの変革に取り組んだ方です。

しかも、50歳を超えてから別の難病に襲われ、両足を切断することになっても車いすで精力的に活動をされた方です。

その不屈の精神力は幾つかのテレビドキュメンタリーでも紹介されています。

私も木之本さんと一度お会いしたことがあり40分ほど話をさせていただいたことがあります。逝去されてからこうしてお悔みを申しあげるまで1週間たちましたが、落ち着いた気持ちになるのに時間がかかりました。

木之本さんに、なぜタイトルに書いたような最大級の賛辞が送られるのか、それは、Jリーグがスタートする8年も前の1985年頃から、すでにサッカーのプロ化に向けた布石を打ち続けた方だからです。

私は、自分の使命である「日本のサッカー文化を100年先まで繋ぎ伝えていく」という取り組みのスタートラインを1993年ではなく1986年に引いています。

それは、このブログのリンク先にもなっている「サッカー文化フォーラム」のwebサイト「ようこそサッカーの世界へ」のヒストリーパビリオンで紹介している「伝説のあの年」シリーズのスタート年をお読みいただければわかります。

ディエゴ・マラドーナが世界中のサッカー少年の心を虜にしたこの年、木之本さんが尽力した最初の一手、奥寺康彦選手と木村和司選手を第一号とするプロ契約選手(当時はまだ、そういう呼称は許されなかったようですが)を誕生させました。

当時「日本サッカーリーグ」と呼ばれていたJリーグ前身のアマチュア時代の事務局で、そういった取り組みを始めたのが、木之本さんとその上司にあたる森健児さん(児という字は正確ではないようです。正確には旧というところが臼という字になっている字のようです)のようです。

川淵さんはまだこの時、事務局にはおられませんでした。このことが「Jリーグ設立の真の功労者は木之本さん」と評する方もいる要因になっているのではないかと思います。

木之本さんと川淵さん、川渕さんが森健児さんの後任として「日本サッカーリーグ総務主事」に就いてから、プロ化へのスピードが加速したことは言うまでもありません。

この二人が二人三脚、表と裏の関係、誤解のないように言えば、裏とは「陰」とか「裏街道」ということではなく「裏方」ということです。川淵さんが陽の当たる表、木之本さんが陽のあたらない裏方に徹して、粛々と仕事をこなした結果、Jリーグは生まれたということなのでしょう。

その木之本さんが、何かのインタビューで「それは墓場まで持っていかなければならない話」と話していたのを読んだことがあります。

川淵さんと木之本さん、こり二人はどういう関係で20年近くを歩んできたのか、墓場まで持っていくつもりの話とは何だったのか、今後100年のサッカー文化の中の、最初の20年を語る上で、この部分を解き明かすことは不可欠だと思っています。

サッカージャーナリズムにも、その解明を期待しますが、それだけに頼っていても仕方ありませんので、自分のテーマにもするつもりです。

それが木之本さんに対する真の追悼になることだと思っています。
最後は少し重たい話になりましたが、木之本さんのご冥福をお祈りいたします。








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