パオと高床

あこがれの移動と定住

新倉俊一『詩人たちの世紀』(みすず書房)

2011-11-12 09:59:53 | 国内・エッセイ・評論
2003年に出版された本である。副題が「西脇順三郎とエズラ・パウンド」。パウンドと西脇を辿りながら、モダニズムが企図した壮大な詩の夢の歴史が描き出される。もちろん、パウンドや西脇が書き残した詩は「夢」ではなく「現実」として、在る。だが、その歴史はたぶん夢の歴史なのだと思う。現実と拮抗しながら、ジョイスが、エリオットが、西脇が、パウンドが生みだしていった世界は、彼ら相互の交流と抗いを経ながら、さらにはイェイツやジョン・コリア、ヒューム、萩原朔太郎や三好達治、シュールレアリスト、「荒地」派の詩人なども巻き込みながら、現代詩の歴史を象っていく。
豊富な詩の引用とコメントや文章の引用で、時代の中で彼らがどう表現の拡大と総合をはたしていったのかが伝わってくる。特に、西脇とパウンドが共に古今東西の作品をモンタージュしていきながら作りだした、独自の詩が持つ世界観が、魅力的だ。また、パウンドとエリオット、ジョイスとの差異の指摘なども興味深い。
この本を読み進めるさいの推進力は、パウンドや西脇の詩の魅力もさることながら、それは例えば、西脇とエリオットの詩の位相に触れる、「西脇の水平の詩学はエリオットの垂直の詩学と交差している」などの表現のように、縦横に互いの同族性と違和を語り証してくれる新倉俊一の視点の面白さと表現の楽しさから来る。

あとがきで、新倉俊一は書いている。
「現代詩はいわば、生まれたときから漬かった産湯である。だれも時代と離れては存在できない。」だから、「現代詩の歩みをたどることは、自分の出生記録をたどるようなものといえよう」と。
この本が持つ内部から膨れあがるような印象は、この現代詩への思いに由来している。であればこそ、「やがて戦前からの西脇順三郎やパウンドのグローバルな詩活動を知るにつれて、ますます現代詩の同時代性を確信するようになった。歴史は偉大な個人の影に過ぎない。この二人の物語を中心に書いているうちに、現代詩の歴史に及んでしまった」となるのであろう。
それに、触れえたような感触をおこさせる一冊だった。

そういえば、別の本で、ニーチェの「思想というものは、われわれの感覚の影である」ということばを見つけた。感覚総体つまり五感を持った身体の影が思想であると考えたとき、歴史というものも、確かに偉大な個人の影に過ぎないのかもしれない。もちろん、この「偉大な」という形容は、偉大な実績を刻んだ者への敬意であって、歴史というものは、と考えたときには、歴史は個人の影に過ぎないのかもしれないといういい方も可能となるだろう。個人が、感覚をつまり身体を持つかぎりにおいて。

この『詩人たちの世紀』は、読み進めた先の第五部「ユリシーズ、私の〈ユリシーズ〉?―『キャントーズ』への案内」で、楽しさが増す。
ここで、新倉は「これまで私は島の周りをめぐってきた。(略)しかし、いつまでもテクストそのものに触れない批評とは、いったい何だろうか?」と書いて、パウンドの壮大な詩『キャントーズ』の解読にむかう。それだけで、本来一冊本になりそうなものを、20ページほどで書くのだから、「ひとつの読み方の提示」であり、「多くの意味の糸のうちの一本にすぎない」のかもしれないが、この一本が楽しい。この詩群の部分的なすばらしさを認めながらも、やはり、ここにある「意識の流れとしての一つの物語」を読み解く一例を示してくれる。そして、「『キャントーズ』は〈開かれた作品〉であって、他にもさまざまなライトモチーフを探すことはできる」と、ウンベルト・エーコの〈開かれた作品〉といういい方を使いながら、読解の多様な可能性を示唆してくれる。それは作品の持つ豊かさを語ることになるのだ。そして、そのことは、現代詩の持つ解釈の多様性と豊かさを示すことにもなっているのだと思う。
コメント
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