この詩誌に、日原正彦さんの詩が三篇掲載されている。三篇といういいかたは正確ではないのかもしれない。二篇と連作一篇。「三崎口」と「裏半分」に、連作の「かけら」の62から70までである。
「三崎口」の冒頭の語り口に引かれる。
三崎口で降りたら
海は見えますか
詩は、レストランで、そうたずねた「私」(詩の中では一人称は記述されない)とウエイトレスとの齟齬(?)を描いていく。この詩誌に掲載されている詩は、どちらも「私」と今そこにいる「あなた」とのまなざしのずれに触れていく。三行ある第二連のあとに、
注文したラーメンをがたがたテーブルにおきながら
お世辞にもかわいいとは言えない
しかくいかおのウエイトレスはどぎまぎしながら答えた
と、第三連が続く。「私」の視線は決定的である。相手は「どぎまぎ」している。
あ あ ちょっとお待ち下さい
いえわからなければいいんです
詩はこのように続くが、かえって、あまり「いいんです」にはなっていなくて、ウエイトレスは萎縮している。
そそくさと背をむけ むこうに立っている
かわいい猫みたいなまるがおの別のウエイトレスに聞いている
あの 見えないそうです
そうですか ありがとう
と言ってそっとむこうを見る
猫が冷ややかに笑っている(ように見えた)
視線の決定力は括弧を使うことでむしろ強まる。日常的な殺伐がここには漂っている。「私」のささやかな欲求の行き先は奪われている。私たちは、日常的にささやかな欲求がかなえられずにいて、またそれに対して「私」ではない者たちは、「私」の失望に見合うだけの無念を示しはしない。それは、あたりまえのことであり、そのあたりまえのことが実はお互いを存在させている。「あなた」との間の自然な齟齬。相手は「猫」と呼ばれ、「しかくいかお」と呼ばれることで、「私」の中に位置づけられる。
食べ終わって お金を払う
レジに立ったのは猫の方だった
アリガトウゴザイマシタ
「私」にはこのことばが、カタカナに聞こえている。どこか、志賀直哉の短編を連想する。その印象は次の連でさらに進む。
抑揚のない 四百八十円の声を
背中にはりつけられながら店を出るとき
ふと
しかくいかおのウエイトレスと
猫がおのウエイトレスと
両方を 微かに 憎んだ
三崎口で降りても
海は見えないんだ
と 思いながら
(日原正彦「三崎口」二連のみ略)
見えない海への思いは、ウエイトレスへの微かな憎しみで対価を払おうとする。こうやってささやかな願いとささやかな失望は、他者へのささやかな思いで解消されていくのかもしれない。私たちはその累積の中にいる。ただし、私たちは常に忘れることで、日々を新たにすることができるのだ。
この詩は僕の中では、連作「かけら」の69と結びついた。
小鳥よ
小鳥は全くかるい
つりあうくらいだ
青空と
(「かけら」69 全篇)
違う意識で交差する眼差しは、非対称でありながらつりあっているのかもしれない。
「三崎口」の冒頭の語り口に引かれる。
三崎口で降りたら
海は見えますか
詩は、レストランで、そうたずねた「私」(詩の中では一人称は記述されない)とウエイトレスとの齟齬(?)を描いていく。この詩誌に掲載されている詩は、どちらも「私」と今そこにいる「あなた」とのまなざしのずれに触れていく。三行ある第二連のあとに、
注文したラーメンをがたがたテーブルにおきながら
お世辞にもかわいいとは言えない
しかくいかおのウエイトレスはどぎまぎしながら答えた
と、第三連が続く。「私」の視線は決定的である。相手は「どぎまぎ」している。
あ あ ちょっとお待ち下さい
いえわからなければいいんです
詩はこのように続くが、かえって、あまり「いいんです」にはなっていなくて、ウエイトレスは萎縮している。
そそくさと背をむけ むこうに立っている
かわいい猫みたいなまるがおの別のウエイトレスに聞いている
あの 見えないそうです
そうですか ありがとう
と言ってそっとむこうを見る
猫が冷ややかに笑っている(ように見えた)
視線の決定力は括弧を使うことでむしろ強まる。日常的な殺伐がここには漂っている。「私」のささやかな欲求の行き先は奪われている。私たちは、日常的にささやかな欲求がかなえられずにいて、またそれに対して「私」ではない者たちは、「私」の失望に見合うだけの無念を示しはしない。それは、あたりまえのことであり、そのあたりまえのことが実はお互いを存在させている。「あなた」との間の自然な齟齬。相手は「猫」と呼ばれ、「しかくいかお」と呼ばれることで、「私」の中に位置づけられる。
食べ終わって お金を払う
レジに立ったのは猫の方だった
アリガトウゴザイマシタ
「私」にはこのことばが、カタカナに聞こえている。どこか、志賀直哉の短編を連想する。その印象は次の連でさらに進む。
抑揚のない 四百八十円の声を
背中にはりつけられながら店を出るとき
ふと
しかくいかおのウエイトレスと
猫がおのウエイトレスと
両方を 微かに 憎んだ
三崎口で降りても
海は見えないんだ
と 思いながら
(日原正彦「三崎口」二連のみ略)
見えない海への思いは、ウエイトレスへの微かな憎しみで対価を払おうとする。こうやってささやかな願いとささやかな失望は、他者へのささやかな思いで解消されていくのかもしれない。私たちはその累積の中にいる。ただし、私たちは常に忘れることで、日々を新たにすることができるのだ。
この詩は僕の中では、連作「かけら」の69と結びついた。
小鳥よ
小鳥は全くかるい
つりあうくらいだ
青空と
(「かけら」69 全篇)
違う意識で交差する眼差しは、非対称でありながらつりあっているのかもしれない。