パオと高床

あこがれの移動と定住

日原正彦「三崎口」(詩誌「橄欖92号」)

2011-11-13 12:47:23 | 雑誌・詩誌・同人誌から
この詩誌に、日原正彦さんの詩が三篇掲載されている。三篇といういいかたは正確ではないのかもしれない。二篇と連作一篇。「三崎口」と「裏半分」に、連作の「かけら」の62から70までである。
「三崎口」の冒頭の語り口に引かれる。

 三崎口で降りたら
 海は見えますか

詩は、レストランで、そうたずねた「私」(詩の中では一人称は記述されない)とウエイトレスとの齟齬(?)を描いていく。この詩誌に掲載されている詩は、どちらも「私」と今そこにいる「あなた」とのまなざしのずれに触れていく。三行ある第二連のあとに、

 注文したラーメンをがたがたテーブルにおきながら
 お世辞にもかわいいとは言えない
 しかくいかおのウエイトレスはどぎまぎしながら答えた

と、第三連が続く。「私」の視線は決定的である。相手は「どぎまぎ」している。

 あ あ ちょっとお待ち下さい

 いえわからなければいいんです

詩はこのように続くが、かえって、あまり「いいんです」にはなっていなくて、ウエイトレスは萎縮している。

 そそくさと背をむけ むこうに立っている
 かわいい猫みたいなまるがおの別のウエイトレスに聞いている

 あの 見えないそうです

 そうですか ありがとう
 と言ってそっとむこうを見る
 猫が冷ややかに笑っている(ように見えた)

視線の決定力は括弧を使うことでむしろ強まる。日常的な殺伐がここには漂っている。「私」のささやかな欲求の行き先は奪われている。私たちは、日常的にささやかな欲求がかなえられずにいて、またそれに対して「私」ではない者たちは、「私」の失望に見合うだけの無念を示しはしない。それは、あたりまえのことであり、そのあたりまえのことが実はお互いを存在させている。「あなた」との間の自然な齟齬。相手は「猫」と呼ばれ、「しかくいかお」と呼ばれることで、「私」の中に位置づけられる。

 食べ終わって お金を払う
 レジに立ったのは猫の方だった

 アリガトウゴザイマシタ

「私」にはこのことばが、カタカナに聞こえている。どこか、志賀直哉の短編を連想する。その印象は次の連でさらに進む。

 抑揚のない 四百八十円の声を
 背中にはりつけられながら店を出るとき
 ふと
 しかくいかおのウエイトレスと
 猫がおのウエイトレスと
 両方を 微かに 憎んだ

 三崎口で降りても
 海は見えないんだ
 と 思いながら
          (日原正彦「三崎口」二連のみ略)

見えない海への思いは、ウエイトレスへの微かな憎しみで対価を払おうとする。こうやってささやかな願いとささやかな失望は、他者へのささやかな思いで解消されていくのかもしれない。私たちはその累積の中にいる。ただし、私たちは常に忘れることで、日々を新たにすることができるのだ。
この詩は僕の中では、連作「かけら」の69と結びついた。

 小鳥よ
 小鳥は全くかるい

 つりあうくらいだ
 青空と
          (「かけら」69 全篇)

違う意識で交差する眼差しは、非対称でありながらつりあっているのかもしれない。
コメント
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