パオと高床

あこがれの移動と定住

夏目房之介『書って何だろう?』(二玄社)

2010-06-11 03:13:20 | 国内・エッセイ・評論
「書」というとすぐに石川九楊を思い浮かべてしまうのだが、それもきっと見識のなさのせいで、「書」に関する本は実は面白い本がたくさんあるのかもしれない。
どんな面白い本があるのか知らないのだが、この本、楽しい。数回見た、NHK「マンガ夜話」のコーナー「夏目の目」でもじゅうぶん楽しませてもらったのだが、夏目房之介は、学問や知や教養を本当に楽しく摂取して、楽しく発信してくれる人だ。

で、この本、二玄社の『書の宇宙』という全24冊の叢書に夏目房之介が連載した書に関するエッセイをまとめたもので、全24話からなる。あっ、この叢書の編纂は石川九楊になっている。
「書道など中学校以来やったこともなく、興味もなかったド素人の」夏目の目は、「書」をひたすら、見る感じるから始めていく。そして、それに、マンガを筆頭とする、さまざまな他ジャンルをぶつけ、喩にして、読み解いていく。いや、感じあげていくと言ったほうがいいかも。

石鼓文と泰山刻石を「かわいい」と「かっこいい」の対立と見たり、縦の流れを「権力による整然たる秩序の成立、あるいは一義的な価値観」と捉え、それに対して文字が横に平らになった曹全碑という人の書を、「人間たちのいろどる相対的で多義的な世界観」を持つ横の意識があるのではないかと語ったりする。そこにマンガのコマ構成の縦長と横長も介在させて、颯爽とした縦長、艶麗な、あだな寝姿の横長と書き加えたりもする。
また、天下の王羲之相手に、「王羲之に天才のひらめきを求めるのは、そもそも天才という存在を可能にするモノサシそのものに天才を問うようなものじゃないか」と言ってみせ、彼の「書」を谷岡ヤスジのマンガではなく、藤子F不二雄の『ドラえもん』であると言ったりする。結果、なんと「王羲之が素晴らしいから手本となったのか、お手本だから素晴らしいのか。これは解き難いパラドックスかもしれない。」と終わらせるのだ。
あるいは、あるいは、草書をジャズの歴史で語ったりもする。懐素という人を「コードとリズムを尊重したアドリブなら」、張旭という人は「フリージャズに近い」と書くのだが、図版で示されている「書」を見ると何だか妙に納得させられる。
こう書いていくと、何だか気儘に書かれているように思われるかもしれないが、そこは夏目房之介、文字の空白部分への見識や筆遣いの動き、文字構成などに眼力を示し、そこに独特の説得力が現れるのだ。
まだまだ、書きたくなってしまう。藤原行成についての12話では、色紙に書かれたかな文字の「天地不揃い、斜め、重なり、余白と、画面の規範力を中性化する特徴は、実は少女マンガの表現の特徴と、ぴたり一致する」として、具体的に少女マンガのコマ割り図版を示している。してみると、何か平安の頃と現代がつながれるような、緩みやかしぎの歴史性に出会えたような気になったりするのである。

ジャンルがジャンルとぶつかるセッション。気持ちよく遊泳できた。
コメント
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