パオと高床

あこがれの移動と定住

大江健三郎『取り替え子(チェンジリング)』(講談社)

2008-06-19 21:57:21 | 国内・小説
どうなのだろう?
読んでいる最中も、読後も、この思いがついて回った。文章はこの小説の中で語らせているように比較的読みやすいのかもしれない。しかし、やはり流れはうねうねしている。それでいて、このうねうねが作り出していく小説の軌跡は、個人的なうねうねにとどまらない広さと奥行きを伴った小説の時空を築きだしている。

この本を手にしたきっかけになったのは大澤真幸の『不可能性の時代』である。その中で大澤は、戦後五十年を二十五年に分け1970年までを「理想の時代」とし、そのあとの1995年までを「虚構の時代」と置き、「大きくは、理想の時代から虚構の時代への転換があった、と見ることができる」と書いている。それぞれのターニング・ポイントとなる象徴的な出来事に、三島由起夫の自決と地下鉄サリン事件を考えている。三島の死は身体性の問題も含めてかなり象徴性を持った事件ではないかと思う。そして、70年から73年ぐらいまでに起こった出来事は。ある時代の転換を感じさせるものである。また、95年の前後を見ると、冷戦構造崩壊以後の流れと、バブルの破綻、幻想(虚構)と現実との交錯の仕方の変化などが見られ、「虚構の時代」からの転換も確かに読み取れるような気がする。で、これは『不可能性の時代』を読み続けてからの話になるので、大江健三郎のこの小説に戻ると、大澤はこう書いている。
「『取り替え子』は、伊丹十三を思わせる親友(にして妻の兄)塙吾良の自殺の謎をめぐる小説である。探求の結果、古義人は、彼と吾良が「アレ」と呼んで、どうしても言語化することができなかった、戦後当初のトラウマ的な体験に辿りつく。それは、戦後当初にGHQに対して仕掛けようとしながら挫折した、ある右翼グループの武装蜂起と、それにまつわる殺人事件である。」
そして、長江古義人三部作の二作目は1960年代の政治運動の挫折に結びつき、三作目は9・11テロを意識していると続けながら、
「第一作は、戦後の起点に、そして、第二作は、一九七〇年へと至る時代の政治運動に、そして、第三作は、「現実」への逃避の時代に、それぞれ対応しているのだ。興味深いことに、最終作『さようなら、私の本よ!』の中では、繰り返し、ミシマ(三島由紀夫)が言及されている。と、同時に、すべての物語の原点に、『取り替え子』が描いたような、戦後当初の殺人事件への負い目があった、ということに注意しなくてはならない」
と書く。
大澤は「現実」からの逃避ではなく、「現実」への逃避と書いている。これが、現代を見るキイ・ワードになっているのだ。
で、大江健三郎だが、この作家が紛れもない小説家である理由のひとつは、執拗に繋がっていく精神の持続である。徹底してこの国の戦後と、精神の再生と、生と死の意味にこだわっていく。この持続は散文精神である。それと、言葉を武器に徹底的に戦い、抗い、求め、考える姿勢である。しかも、言葉は言葉の可能性の側に開かれている。
ボクらを取り巻く危機的状況の中で、ボクらがどこを起点に物事にこだわっていけばいいのかを、考えさせてくれる物語だろう。

それにしても、最終章をどう捉えるか。これは、三部作への繋がりを見ないとわからないことなのかもしれないが、うーむ。ちょっと頭をひねってしまった。
それからレアなモデル群に、どういう思いを持っているかも、小説に入り込めるかどうかをわけるかも。



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