パオと高床

あこがれの移動と定住

矢田津世子『神楽坂』『父』(講談社文芸文庫『神楽坂 茶粥の記』から)

2008-04-05 09:19:00 | 国内・小説
樋口一葉を読んだときに、この系譜に位置する作家は誰なのだろうと考えてみたが、そうそう系譜で小説を読んでいるわけでもないし、とにかく読んでいない作家が多いわけで、なかなか難しいのだが、尾崎翠と矢田津世子という名前が思い浮かんだ。似ているというわけではなく、単なる連想なのだが、この文庫に収められている作品から『神楽坂』と『父』を読んでみた。

一葉にある文体のリズムやうねり、色彩や音、押し込められた情念や胸を打つ情感はなかったが、微妙な情感を感情移入せずに、客観性を持って書いている距離感があった。小説は1935年、36年に書かれている。その当時の文学の流れのなかで、矢田津世子が選び取った、あるいは書き得た表現のスタイルがこれだったのかもしれない。微妙な心理の葛藤が執拗とならない節度を持って表現される。社会性が単なる告発とならずに、受け容れがたさを受容してしまっている姿として描き出され、そのことでむしろ時代の構図を浮き彫りにする。制度への疑いと、制度を受け容れている自分たち自身への批判という両方を持ちながら、さらにその中で生きている自分たちの愚かさのようなものや、やるせなさのようなものを突き放さずにいる作家としてのスタンスが小説を味わい深くしている。

『神楽坂』の本妻と妾の葛藤。「爺さん」が妾宅に行っている間に虫を刺したり、あるいは、その間に病床にありながら縫い物をしたりする妻の行為の凄さ。一方で妾のお初は、より楽な場所を得ようとして正妻になることを拒みながらも、正妻への夢も持ち期待もしてしまう。依存する愚かさと依存して生きる不幸を伴ったしたたかさ。そのお初によって生活を成り立たせる母。本妻に尽くしながら娘のように暮らす種は、本妻の死後養女への可能性を持ってしまう。そんな女性どうしの葛藤の上に立ち、舵を取りながら自己の欲望を満たしつづける「爺さん」。家父長制が持つ社会の権力の構図が描き出されている。
『父』でも、家制度の待つ権力が描かれる。父によって認められ、可愛がられることで家の中でのポジションを確保する娘や妻や妾たち。彼女たちは、お互いが思いやりを示しあったり、反発しあったりするのだが、その心の動き自体が家父長制を支えてしまっているということが、この小説では紡ぎ出される。それは、生きていくための姿でありながら、そう生きざるを得ない社会的不幸であるのだ。

どうして、こんな時代なの?で、どうしてあなたたちってこうなの?そして、私たちって何でこうなの?といった声が小説から聞こえてくるのだ。この「私たちって」において、小説は川村湊が解説で指摘するように森鴎外の『雁』などと一線を画すのだろう。樋口一葉と同様に作家としての闘いのようなものが感じられた。これは、もちろん女性であり作家であるということが、否応なしに引き受けざるを得なかった闘いであるのかもしれない。

系譜的には、どうだろう?樋口一葉の系譜というのはないのかもしれない。でありながら、樋口一葉の系譜でない作家もいないのかもしれない。とか、ぐるぐる問答で。


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イアン・R・マクラウド『夏の涯ての島』浅倉久志他訳(早川書房)

2008-04-01 12:57:09 | 海外・小説
収録作品数編を読む。

中編「息吹き苔」の中で、タリーカと呼ばれる神秘修行者が主人公のジャリラに言う言葉がある。
「さあ、想像してみなさい。ジャリラ。この宇宙がたったひとつのもの、これがあれのあとにつづくようなひとつながりではなく、潜在的可能性の果てしない枝分かれだとしたら?宇宙は天地創造の日からそうだったし、いまもそうなのよ。風に捕らえられたあの木の葉の動きも、そのコーヒーから立ちのぼる湯気も。あらゆる瞬間にいろいろの変化が含まれている。その大半は、貧弱なできそこないのしろもの、全能の神のつかのまの思いつきや気まぐれにすぎない。宙ぶらりんのまま死に絶え、二度と見ることができない。でも、それ以外の枝分かれは、いまわたしたちが歩んでいるこのルート同様、堅固に作られている。この城(カスル)のなかには、おまえもわたしもまだすわったことのない宇宙がいくつもある。そこにはジャリラのいない宇宙もある…。」
これが、そのまま、この作者の作品集を支えている。たくさんの多層的宇宙、多層的時間のひとつが描き出されていく。

この「息吹き苔」は、〈10001世界〉にある惑星ハバラを舞台にした物語だ。高原から海岸に移動してきた少女ジャリラは途中、息吹き苔を吐き出す。これが少女から大人への移り変わりの兆候である。そして、住民のほとんどが女性であるハバラでのジャリラの恋と成長が描かれるのだ。この世界はアラビア風、エジプト風であり、遊牧の生活とギリシャ的街並みの混在も見られる。科学技術は発達し、原地球から移り住んできた未来世界が克明にイメージ豊かに描かれていく。かつて、大航海に出たであろうアラビアの旅人は、この世界では宇宙空間の旅人となる。解説や説明を加えずに、もう既に世界にあるものとして固有名詞化されたものが出てきたり、世界の成り立ちや構図は、ジャリラが知らないように読者にも知らされず話は進むのだが、壮大な未来史を神話的な雰囲気で構築している。
お互いが離れてしまう〈距離の苦痛〉。ジャリラは旅立ちで涙を流し、涙の意味を知る。だが、その苦痛とは、すばらしい人生に対して「そのすべてとひきかえに、おまえが支払う代償なのだ」とタリーカは意味づける。部分の描写や感情の動き、そして思索的な言葉がよかった。例えば、「あらゆる感情のなかで欲望はいちばんふしぎだ。それにとりつかれてないときはごくささいなものに思えるが、とりつかれたときは、宇宙の秘密のすべてがそこで待っているような気がする…。」とか。「全能の神の核心は、星ぼしの間の無の空間に似ていて、みんながそのまわりをめぐっている。わたしたちは、それがそこにあることを知っているが、決してそれを見ることはできない…。」とか。

表題作「夏の涯ての島」は「改変歴史もの」に位置づけられている。
改変歴史ものは、SFだけでなく、例えば、スティーヴ・エリクソンの『黒い時計の旅』などのように、改変することで歴史の暗部に切り込み、現代史自体を覆してみせる力業の作品から、改変自体の機知と楽しみに批評精神を融合させたものなどたくさんあるのだろうが、この小説は、むしろ、歴史の改変が帰らぬ青春と繋がっているところに、味わいがあるのだろう。
1940年ドイツに敗れたイギリスの辿る歴史。カリスマ指導者ジョン・アーサーによるファシズム政権のなかで迫害されるユダヤ人や同性愛者たち。その敗戦下の状況が歴史をいぶり出す一方で、アーサーは、歴史学者である語り手の男グリフが愛した男である。老境のグリフのアーサーと過ごした時間への思いが、再会を果たした現在の時間に重なっていく。背景には大きな暴力がある。その中で歴史は繰り返される。しかし、帰らないかけがえのない時。思い出の時間である夏と現在が交差しあう表現が冴える。〈The Summer Isles〉をサマー諸島ではなく、「夏の涯ての島」と訳す表題が示すように、離され、涯てにいった夏の島への痛みが伝わってきた。
ただ、もうひとつ浸りきれなかったのは、どうしてだろうという気持ちも残ったのだ。案外、短かったからかも。

この本で、読みやすいのは「わが家のサッカーボール」かもしれない。考えたものに変身する能力を身につけた人間が暮らす世界が舞台だ。変身譚の変形として十分楽しめるし、そこにもられたストーリーの、ほの哀しさと、微笑ましさは古風な家族愛のテイストなのだ。トラウマが具現化され外化する変身。それは考えようによっては、人の心の動きの明確化でもあるだろう。そう考えると、具現化されずに眠ったままの心の闇が、昨今、むしろ怖いのかもしれない。



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