パオと高床

あこがれの移動と定住

夏目漱石『彼岸過迄』(新潮文庫)

2008-04-15 02:49:06 | 国内・小説
肥大化していく自意識は人を幸福にするのだろうか不幸にするのだろうか。自意識は自意識自体を支え囲い込まなければならない。そのことにすでに不幸は宿っている。しかし、自意識が人であることの尊厳を支えているとも言えるだろう。

近代の知識人が抱えこんだ自意識が圧力となって登場人物を襲う。小説は短編連作の構成を取りながら、「須永の話」を中心に持っている。行動し得ない内向的性格の須永は自意識に取り囲まれている。「私」を「私」が解析していく近代人の悲劇を生きている。彼は「恐れる男」であり、千代子という「恐れない女」に引かれながら向かえないでいる。一方、千代子は恐れることなく自ら行動しながら、優柔不断な須永に惹かれながらもいらだち、その態度に「卑怯」を感じてしまう。この二人の恋愛感情の交差に、自意識が作りだした漱石の三角関係が形作られる。漱石は三角関係の追求の図式を繰り返す。そこに人が人を追う関係のドラマを見る。さらに、須永の思考の根に母子関係を重ねて、須永の心が起動する原因にアプローチする。小林秀雄は『私小説論』でジイドを論じて自意識の「実験室」という表現を使っていたが、漱石も時代の中にあって近代の自意識の問題点を摘出してみせるのだ。

夏目漱石は面白い。何が面白いのだろう。劇的な起伏があるわけじゃない。しかし、描かれている人物の心の起伏は面白い。その行動する場所が明治という時代を描き出しているようで面白い。まじめが、真面目に突っ込んでいく様が、客観的なおかしみを誘ったりもする。このへんが、宮藤官九郎が昼のドラマに漱石を持ってきて『我が輩は主婦である』を作ったりするおかしみだと思ったりもする。実際この小説でも敬太郎がゴム林の経営者になりたいと妄想する場面など笑えるし、ステッキに導かれる様や占いの場面なども吹きだしてしまう。そして英訳体のような文体と江戸っ子のような口語と漢語に訓読をつけた言い回しの混ざる文章の活きのよさ。分析の客観性と距離感の心地よさ。これらが、思いつく漱石の面白さのいくつかだ。

この小説は敬太郎を狂言回しのように使うことで、語りに工夫がされている。作者が直接語るのではなく、また、登場人物を「私」にして語らせるのではなく、敬太郎という小説の人物を使って、その敬太郎の交流によって、ドラマを作るという構成になっているのだ。自然主義的なもの私小説的なものと距離を置く創作者の企みが見てとれる。その人物は探偵のような行為をする。探偵であり、傍観者である。都市に生まれたそんな行為。都市にあって都市の人々を観察し、想像を膨らませる。そのまま、江戸川乱歩や萩原朔太郎の探偵という言葉が思い出される詩に繋がっていくようだ。小説は追求である。そう考えれば、追求の図式が、作者から敬太郎を通して、その他の登場人物へという流れに活かされているのだ。
いくつかの短編のようにして数人の人物のエピソードや思考を語る方法や、また、後半、「須永の話」や「松本の話」で、違う「僕」を使っていくつかの語りを呈示した方法や、手紙を使って別の「僕」を介入させる方法など、実はポリフォニックな手法を使っているのだ。

制度の中で生きる女性の中に、千代子や『三四郎』の美禰子のように、近代精神の脆弱さを糾弾してくる精神のあり方を作り出しながら、また、彼女たちも結局、封建的な制度の中に取り込まれてしまう姿も一方で描きながら、知識人の苦悩を語る漱石に自意識の流れはどう映っていたのだろうか。その戦いは『行人』や『こころ』につながっていくのだろう。

「写生文」や「遊民」や「探偵」という言葉を使いながら書かれている柄谷行人の平成二年の解説もなかなかいい。



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