単に設定だけの問題ではなく、今放送中の朝ドラ「だんだん」の着想は、この小説じゃないかと思ってしまう。それにしても、不思議な文体だ。日本的抒情と言ってしまったとして、それにしては文章は妙に乾いている。情感を綴るのではなく、論理を追いかけようと付帯状況を連ねて、文全体でひとつの状況を作り上げようとしているといったらいいのか?あるいは、帰納法的文章とでも名づけようか。とにかく、読点の技巧である。これは、案外夢の叙述に向いているのかもしれない。 杉山も、根もと下草が枯れて、真直ぐな、そして、太さのそろった幹は、美しい。 秀男は濃い眉に、口を固く結んで、自信ありげの顔だが、風呂敷をほどく指先は、かすかにふるえている。 父の太吉郎は、千恵子の帰った、あいさつを、よく聞き終わらぬうちに、「なんやった、千恵子、その子の話。」と、乗り出すようにたずねた。と、こんな文体。まず、とにかく発語する、それからその語を追いかけるように読点の連続でイメージや描写の全体が追いかけられる。何か、古典の文体にも似ているような、それでいて案外、翻訳に耐えられる文章のようでもある。また、自動記述とは言わないまでも、結構自在な文でもある。「あとがき」によると「眠り薬」の濫用で、「眠り薬に酔って、うつつないありさまで書いた」小説は、そのうつつなさを、むしろ繋ぎ止めようとする意志の力のようなもので紡ぎ出された小説なのかもしれない。文庫本解説で、山本健吉はこう書く。「この美しい一卵性双生児の姉妹の交わりがたい運命を描くのに、京都の風土が必要だったのか。あるいは逆に、京都の風土、風物の引き立て役としてこの二人の姉妹はあるのか。私の考えは、どちらかというと、後者の方に傾いている」京都の四季が、葵祭、時代祭などの行事とともに描き出される。また、京都の風景が、町のありよう、北山杉の山間部の姿のどちらにも渡って、四季の移ろいの中で表現される。そう、京都を描きたかったのではないかという山本健吉の解説に頷いてしまう。しかし、その時に、川端康成は一卵性双生児という登場人物を配するのである。京都の持つ一卵性双生児の容貌。その育った環境で培われた二つの面。幻と現実。一方は幼いときに捨てられて、そして出会った二人。そこには京都の持つ町の歴史における二面性と、京都の持つ中心と周縁の物語を重ねてみることも可能なのだろう。山本健吉は「結局は京都の名所風俗図絵、年中行事絵巻を繰り広げるところが、この可憐な作品のひそかな願いであったのかも知れぬ。ここに描かれた京都のような都会が、今日の日本においては、別乾坤であり、「壺中の天地」であるかも知れないのだ」と解説を結ぶ。ここには、川端康成の町への挽歌があり、山本健吉のそう読む思いがあるのかもしれない。逝きし世の面影か。
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