太宰治を読んだら、檀一雄を読みたくなった。檀一雄の豪放でありながら繊細な感じや、片雲の風に誘われていってしまうあの身勝手さに触れたくなった。
この本、「檀一雄作品選」となっていて、若さの鮮烈を描ききった「花筐」、リツ子の死の際を痛切に描いた「終りの火」、『火宅の人』につながる苛烈な逃走の序幕のような「白雲悠々」を読んだ。
「花筐」は、瞬間の死を詩のように結晶化させた若さのもつ輝きに包まれた作品だ。そして、それはすでに生自体が輝くために宿命的に死が存在していることを告げている。そこに至るためには、無頼を生ききらなければならないのだろうか。強い孤独の報復の手前で小説は終わる。そこが見事に、若さの小説になっているのだ。
その死が作家の創作と激しく闘い合う壮絶さを示しているのが「終りの火」かもしれない。作家の気迫が愛する者の死と対峙している。これはまた、「白雲悠々」の世事や生活から逃走しようとする作家の哀感ともつながっていく。そうすること自体によって創作の中で、自身の哀しみやつらさを引き受けようする作家の業が「白雲悠々」という小説を魅力あるものにしている。
檀一雄は詩的な精神を散文精神として耐久させようとした作家だったのかもしれない。それは、散文精神という持続する精神の運動が引き受けざるを得ない無惨さの継続に耐えなければならないのかもしれない。瞬間のみの輝きですべてを終わらせてしまうことができない時間の報復に耐えながら、戦いながら、逃げながら、そこから詩への憧れが迸るような作品を描き出した。
ただね、やっぱり、身勝手だよな。とんでもないよ、あなた。と言う人がいるのは当然なような気がする。でも、何だかとても引力の強い作家なのだ。
『火宅の人』はよかったな。作者にとっての真の生活への希求が、彷徨が、生活を突き抜け、作者のリアルにぶつかり、強靱な作品を作り上げていた。「私」のスケールが小説から溢れ出しそうにして小説を張力いっぱいに張りつめさせていたという気がする。で、読み物としても面白いのだ。何だか、そんな印象が残っている。
この本、「檀一雄作品選」となっていて、若さの鮮烈を描ききった「花筐」、リツ子の死の際を痛切に描いた「終りの火」、『火宅の人』につながる苛烈な逃走の序幕のような「白雲悠々」を読んだ。
「花筐」は、瞬間の死を詩のように結晶化させた若さのもつ輝きに包まれた作品だ。そして、それはすでに生自体が輝くために宿命的に死が存在していることを告げている。そこに至るためには、無頼を生ききらなければならないのだろうか。強い孤独の報復の手前で小説は終わる。そこが見事に、若さの小説になっているのだ。
その死が作家の創作と激しく闘い合う壮絶さを示しているのが「終りの火」かもしれない。作家の気迫が愛する者の死と対峙している。これはまた、「白雲悠々」の世事や生活から逃走しようとする作家の哀感ともつながっていく。そうすること自体によって創作の中で、自身の哀しみやつらさを引き受けようする作家の業が「白雲悠々」という小説を魅力あるものにしている。
檀一雄は詩的な精神を散文精神として耐久させようとした作家だったのかもしれない。それは、散文精神という持続する精神の運動が引き受けざるを得ない無惨さの継続に耐えなければならないのかもしれない。瞬間のみの輝きですべてを終わらせてしまうことができない時間の報復に耐えながら、戦いながら、逃げながら、そこから詩への憧れが迸るような作品を描き出した。
ただね、やっぱり、身勝手だよな。とんでもないよ、あなた。と言う人がいるのは当然なような気がする。でも、何だかとても引力の強い作家なのだ。
『火宅の人』はよかったな。作者にとっての真の生活への希求が、彷徨が、生活を突き抜け、作者のリアルにぶつかり、強靱な作品を作り上げていた。「私」のスケールが小説から溢れ出しそうにして小説を張力いっぱいに張りつめさせていたという気がする。で、読み物としても面白いのだ。何だか、そんな印象が残っている。
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