パオと高床

あこがれの移動と定住

ことばと音

2004-10-11 01:19:48 | Weblog
まったくの形と意味という文字では「くさび形文字」などがそうではないかと思います。
また、漢字では会意文字や象形文字は音を封じられている。形声文字は音素と意味を表す形体素からなるが、この文字も、すでにある象形文字や会意文字の音の借用で、厳密には音素はなく類推や帰納音というべきものだといった内容が、白川静の本に書かれていた。
想像すると、記録媒体化されるときに音の呪が封じられたとか思えば、結構、陰陽師の世界である。(余談ですm(_ _)m)
 で、この白川静の本では最初にことばは音声言語と文字言語に分かれるということが記述される。文字言語は音声言語の書き写された形式にすぎない。そして音声文字が研究される。その後、絵画や映像が言語として考えられる中で漢字も文字映像として考えられたと、彼の話は進むのだが、そう考えると、たとえばバルトがエクリチュールとして書くことや書かれたもの、文書にこだわり、それらを峻別して追求する態度も確かにラディカルだったのだ。(また余談です)
 で、その書き写された形式だとしても、そこに音の実質は存在しない。つまり約束だけが記述されたといえないだろうか。音の実質は背後に消える。そこで有田さんの言い表しが正当になる。
 先日、坂本龍一が「ニュース23」の企画で「War and Peace」という曲を作って演奏していた。全国から詩を募集し、その朗読映像と坂本の曲が流されるというものだ。彼は、朗読の音を意識しながら音楽の音を配置していくことの困難と楽しみを語り、そこに方言が入ったときの音の逆転が大変だが面白かったと語っていた。言葉は坂本の音楽によって再構成され、映像が音楽で再構成されること等質であった。ここでは、作者の音経験と坂本の音経験が出会っているのだ。つまりは、絶対的な音はむしろ相対性の彼方に現れるのではないだろうか。文字ー声ー音の作業が文字に音を付加していく。
この辺で、今、すすめられている「考え」の有効性が見えてくるような気がするのだ。

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