一昔前のように箱入りの百科事典や文学全集を応接間のガラス戸の書棚に家具のようにずらりと並べ、読むというより飾っておく蔵書家がめっきり減った。
百科事典はパソコンで代用できるし、文学全集も全集を集めたくなるほどの作家も見当たらない。それに、安価に基礎知識が得られる新書の全盛期で、本そのものが美術品であるという考え方からは遠い時代になった。
こんなご時勢に、さいたま市のうらわ美術館では、「ブックアート」(本をめぐるアート)のコレクションをしていて、「アート(美術作品)としての本」を1000点以上所蔵している、と知ったのは最近のことだ。
浦和市当時、2000年開館の後発の美術館として、何か独特の個性を持たせたいと、昔からの文教都市で「本好きのまち」だから、本に関連したブックアートで行こうということになったらしい。
ブックアート収集を柱の一つに掲げる日本で唯一の館になっている。地域美術館として、さいたま市ゆかりの美術家の作品も収集している。この二つが柱なのだ。
この美術館は、旧中山道沿いのホテル「浦和センチュリーシティ」の3階にある。常時、全収蔵作品を展示しているわけではない。
11年11月23日の勤労感謝の日に、北九州市立美術館との共同企画で「アートとブックのコラボレーション展」という展覧会が、来年1月22日までの日程で始まった。これまで何度か同じようなテーマで展覧会を開いてきたという。
なにしろ初めてだから、絵本とか挿絵本とか、本の表紙、見返し、扉、カバーなどに意匠を凝らして装丁された本が並んでいるものと漠然と想像していた。
表装にこだわった「美装本」という言葉もあるとおり、日本の製本技術の水準が極めて高いことは知っていたからだ。
その類のものも、もちろんあるものの、素人としては「果たしてこれも本なのか」と思いたくなる作品が多数あった。
本と言えばこれまで、字が主体で字を読むもので、絵とか挿絵とか、装丁とかは、字の付属物、引き立て役だと考えてきた。
ここで展開されている世界は、その逆で、付属物や引き立て役が主で、文字は従のもの(ない場合も)が多いのだ。
読む本ではなく、ブック・オブジェだと考えたほうがいい。なにしろ焼き物や金属製の本(写真)もあるのだから。
「美術作品としての本」には、なじみがない。調べてみると、ピカソが20世紀で最も偉大なブックアーティストの一人で、美しい絵の版画を挿絵とした本を150冊以上描いているという。
このような本はArtist’s Book(アーティスツ・ブック)と呼ばれるものだ。マチスやミロ、シャガールのも展示されていて、カンバスの絵とは違った魅力がある。
この展覧会を見て、「本」についての考え方が混乱してきたので、学芸員の方に「ブックアートに関する美術館の考え方を書いたものはありませんか」と尋ねたら、この美術館の設立から関わってきた森田一学芸員の『本をめぐるアートについて』と題する小論文をコピーしていただいた。この中に
「ここにある本の作品は、普通の本ではない。紙でできているとは限らないし、頁が綴じられ冊子になった本とも違う。コミュニケーション・ツールとして機能する本でもない。
作品の中には、現実の機能性や実用性など、メディアとしての性質が抽象され、捨象された本の象徴的な姿が見え隠れしている。作品から看取されるものは、作品に内在し、そこから表出する様々な『本の象徴性』であろうと思う」
「本が美術作品になったのか、美術作品が本になったのかということは、さして問題ではない。それが、読めるのか、私たちが知っている本の形をしているのかということも重要ではないだろう。本に託された作品が、本という存在やそれがもたらす現代の問題をどのように喚起し、それにどのようにつながってゆくのかということが大切なのだと思う」
というようなことが書いてある節があって、なるほどとうなずいた。「百聞は一見にしかず」。実際に見てみると、いくぶん分かってくる世界がある。