高麗神社 高麗王若光 日高市
「高麗神社」の額は、よくよく見ると、「句」の字が「高」と「麗」の間に小さな字で挟まっていて、「高(句)麗神社」のことだと分かる。
この神社と近くの高台にある「聖天宮(しょうでんぐう)」は、高麗郡(こまごうり)の基礎を築いた高麗王若光(こまのこきし・じゃっこう)を祀っている。「こま」とは「高麗」の日本読み。「こきし」とは「王」のことだ。
高麗神社前の「天下大将軍」「地下女将軍」の男女一対の守護神も堂々と石像になって立っていた。天下とは「地上」という意味だとか。地上と地下の両方の面倒を見てくれるというのだ。
朝鮮半島では「将軍標(チャンスン)」と呼ばれる魔除けである。
同じ村を守るといっても、道しるべの性格が強くものやさしい感じのわが道祖神よりも、二将軍の歯むき出しの大きなその姿は、頼りになりそうな気がする。
この神社は、朝鮮半島の雰囲気が漂っていて、私の好きなところだ。韓国の国花「木槿(むくげ)」も咲いている。
近くの高台にあるのが、聖天宮。若光の菩提寺である。正式には、「聖天院勝楽寺」。若光に仕えた僧、勝楽らが建立した(751年)。若光の守護仏である聖天(歓喜天=かんぎてん)からその名がついた。
聖天院は2000年に、総檜造りの新本堂が完成、その裏には立派な「在日韓民族無縁仏慰霊塔」が立っている。
山門脇には、朝鮮様式の小さな古い多重塔がある。若光の墓である。境内には若光の像が立っている。(写真)
若光とは何者か――今流に言えば、668年に唐と新羅に滅ぼされた「高句麗」の政治亡命者である。日本の奈良時代のちょっと前の話だ。
若光は難民を率いてきたのではない。高句麗が滅ぶ2年前、訪日使節団の中にいた、まだ若かった「玄武若光」だと考えられている。その上に「二位」がついているから偉かったのだろう、国が滅ぼされたので日本にとどまるほかなかった。
それ以前から日本と高句麗の関係は深かった。推古天皇の時代になると、595年には聖徳太子の仏教の師とされる高句麗僧の慧慈(えじ)が来日、605年には高句麗王から黄金300両が贈られ、飛鳥寺の日本最古の仏像飛鳥大仏を造るのに使われた。610年には同じ高句麗僧の曇徴(どんちょう)が紙や墨の製造技術を伝えたという。
若光は703年、朝廷から「王(こきし)」の名を贈られた。「高麗王若光」である。日本では「従五位下(じゅうごいげ)」という貴族の位階を与えられていた。日本の官人として出仕していたのだろう。
「高麗」は氏、「王(こきし)」は姓(かばね)だという。「こきし」とは、飛鳥時代に作られた姓(かばね)の一つで、百済王族ら少数の帰化人に与えられた。
716年、1799人を率いて高麗郡に移住した時は、来日から50年、若光はすでに白髪の翁であった。「白髭明神」と伝えられるのは、その風貌のせいであろう。没したのは748(天平20)年というから、事実なら32年高麗郡にいたことになる。韓国の田舎を尋ねると、白髭の老人に出会うのは、ご存知のことだろう。
来日以来数十年留まっていたのは飛鳥時代の都「飛鳥」(現明日香村)である。朝鮮半島では百済が滅び(660年)、高句麗が滅び、多くの帰化人が飛鳥に滞在していた。高句麗からの帰化人は高麗人(こまびと)と呼ばれた。
若光一行はどのようなルートで高麗郡にたどり着いたのか――。高麗神社を訪ねた際、神社で「ALOSデータによる渡来人の足跡調査の研究」が展示されていた。
ALOSとは、日本の陸域観測技術衛星「だいち」で、三次元画像で見られるので、地形の細部や建造物の高さも観測できる。そのデータを古文書などと照合して、若光の足跡をたどろうというのである。「宇宙人文学」という新しい学問だという。
1799人はどのような人たちで、どう連絡して、どこに集合したのか、謎は多い。神奈川県大磯に高麗神社(現在は高来神社)があることなどから、若光は奈良から大磯に移り住み、高麗郡に向かったとされているが、宇宙考古学はどこまで謎を解明できるか。
朝鮮半島からの渡来人が武蔵国や関東地域に来たのは、高麗郡が初めてではない。6世紀の末頃から始まったと言われる。
758年には 帰化した新羅人74人を武蔵国に移し、「新羅郡」を置いた(後に新座郡に改称)。新羅郡は、現在の新座、和光、朝霞、志木市あたりである。
武蔵国には、高麗郡、新羅郡より前の7世紀後半から熊谷から深谷市にかけて、新羅系の秦氏と関わりのある「幡羅(はたら)郡」があったようで、渡来人の郡が三つもあった勘定だ。
武蔵国にこのように渡来人の郡が置かれたのは、未開地だったこの地を新技術で開拓させ、東北の蝦夷(えみし)に備える目的があったようだ。
渡来人は、養蚕、須恵器(土器)、瓦づくり、土木工事など新技術を持っている技術移民だった。日高市の巾着田は渡来人が最初に田を作ったと言われ、和同開珎の自然銅を発見したのも渡来人とされる。
古代の武蔵国と朝鮮半島との関係の深さが分かる。
「高麗神社」の額は、よくよく見ると、「句」の字が「高」と「麗」の間に小さな字で挟まっていて、「高(句)麗神社」のことだと分かる。
この神社と近くの高台にある「聖天宮(しょうでんぐう)」は、高麗郡(こまごうり)の基礎を築いた高麗王若光(こまのこきし・じゃっこう)を祀っている。「こま」とは「高麗」の日本読み。「こきし」とは「王」のことだ。
高麗神社前の「天下大将軍」「地下女将軍」の男女一対の守護神も堂々と石像になって立っていた。天下とは「地上」という意味だとか。地上と地下の両方の面倒を見てくれるというのだ。
朝鮮半島では「将軍標(チャンスン)」と呼ばれる魔除けである。
同じ村を守るといっても、道しるべの性格が強くものやさしい感じのわが道祖神よりも、二将軍の歯むき出しの大きなその姿は、頼りになりそうな気がする。
この神社は、朝鮮半島の雰囲気が漂っていて、私の好きなところだ。韓国の国花「木槿(むくげ)」も咲いている。
近くの高台にあるのが、聖天宮。若光の菩提寺である。正式には、「聖天院勝楽寺」。若光に仕えた僧、勝楽らが建立した(751年)。若光の守護仏である聖天(歓喜天=かんぎてん)からその名がついた。
聖天院は2000年に、総檜造りの新本堂が完成、その裏には立派な「在日韓民族無縁仏慰霊塔」が立っている。
山門脇には、朝鮮様式の小さな古い多重塔がある。若光の墓である。境内には若光の像が立っている。(写真)
若光とは何者か――今流に言えば、668年に唐と新羅に滅ぼされた「高句麗」の政治亡命者である。日本の奈良時代のちょっと前の話だ。
若光は難民を率いてきたのではない。高句麗が滅ぶ2年前、訪日使節団の中にいた、まだ若かった「玄武若光」だと考えられている。その上に「二位」がついているから偉かったのだろう、国が滅ぼされたので日本にとどまるほかなかった。
それ以前から日本と高句麗の関係は深かった。推古天皇の時代になると、595年には聖徳太子の仏教の師とされる高句麗僧の慧慈(えじ)が来日、605年には高句麗王から黄金300両が贈られ、飛鳥寺の日本最古の仏像飛鳥大仏を造るのに使われた。610年には同じ高句麗僧の曇徴(どんちょう)が紙や墨の製造技術を伝えたという。
若光は703年、朝廷から「王(こきし)」の名を贈られた。「高麗王若光」である。日本では「従五位下(じゅうごいげ)」という貴族の位階を与えられていた。日本の官人として出仕していたのだろう。
「高麗」は氏、「王(こきし)」は姓(かばね)だという。「こきし」とは、飛鳥時代に作られた姓(かばね)の一つで、百済王族ら少数の帰化人に与えられた。
716年、1799人を率いて高麗郡に移住した時は、来日から50年、若光はすでに白髪の翁であった。「白髭明神」と伝えられるのは、その風貌のせいであろう。没したのは748(天平20)年というから、事実なら32年高麗郡にいたことになる。韓国の田舎を尋ねると、白髭の老人に出会うのは、ご存知のことだろう。
来日以来数十年留まっていたのは飛鳥時代の都「飛鳥」(現明日香村)である。朝鮮半島では百済が滅び(660年)、高句麗が滅び、多くの帰化人が飛鳥に滞在していた。高句麗からの帰化人は高麗人(こまびと)と呼ばれた。
若光一行はどのようなルートで高麗郡にたどり着いたのか――。高麗神社を訪ねた際、神社で「ALOSデータによる渡来人の足跡調査の研究」が展示されていた。
ALOSとは、日本の陸域観測技術衛星「だいち」で、三次元画像で見られるので、地形の細部や建造物の高さも観測できる。そのデータを古文書などと照合して、若光の足跡をたどろうというのである。「宇宙人文学」という新しい学問だという。
1799人はどのような人たちで、どう連絡して、どこに集合したのか、謎は多い。神奈川県大磯に高麗神社(現在は高来神社)があることなどから、若光は奈良から大磯に移り住み、高麗郡に向かったとされているが、宇宙考古学はどこまで謎を解明できるか。
朝鮮半島からの渡来人が武蔵国や関東地域に来たのは、高麗郡が初めてではない。6世紀の末頃から始まったと言われる。
758年には 帰化した新羅人74人を武蔵国に移し、「新羅郡」を置いた(後に新座郡に改称)。新羅郡は、現在の新座、和光、朝霞、志木市あたりである。
武蔵国には、高麗郡、新羅郡より前の7世紀後半から熊谷から深谷市にかけて、新羅系の秦氏と関わりのある「幡羅(はたら)郡」があったようで、渡来人の郡が三つもあった勘定だ。
武蔵国にこのように渡来人の郡が置かれたのは、未開地だったこの地を新技術で開拓させ、東北の蝦夷(えみし)に備える目的があったようだ。
渡来人は、養蚕、須恵器(土器)、瓦づくり、土木工事など新技術を持っている技術移民だった。日高市の巾着田は渡来人が最初に田を作ったと言われ、和同開珎の自然銅を発見したのも渡来人とされる。
古代の武蔵国と朝鮮半島との関係の深さが分かる。