渋沢栄一 一万円札の肖像に登場 「論語の里」に人気 深谷市
24年に発行される新1万円札の肖像に「日本の資本主義の父」とされる実業家の渋沢栄一を起用すると、麻生財務相が19年4月9日の会見で発表して以来、地元の深谷市の「論語の里」の人気が高まっている。
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埼玉県は18年に、認知症か、その疑いで行方不明になって警察に届け出があったのは、17年より48人多い1782人(男性984人、女性798人)で、全国で2番目に多かった。統計のある12年以降、毎年増加し、過去最多を更新している。
県警と警察庁の調べによるもので、全国では前年比1064人増の1万6927人。12年と比べ1.76倍、毎年増え、過去最多を更新している。都道府県別に見ると、大阪が最多の2117人、2位が埼玉で、兵庫の1585人が続いている。
蕨市長選が19年6月2日投開票され、現在、共産党籍を持つ全国唯一の市長頼高英雄氏(55)が新人で元読売新聞記者の鈴木直志氏(50)を破り4選された。
頼高氏は、共産党市議から3度の市長選挑戦で07年に初当選、3期12年を務めた。今回の選挙戦でも、党籍を残しながら推薦を受けず無所属で出馬した。
鈴木氏も当初は、どの政党の推薦も受けない方針だったが、自民党の推薦を得て、さらに公明党市議団の支持も獲得、政党の応援を得て戦った。
頼高氏は、蕨市生まれ、埼玉大学教養学部卒、IT会社員でシステムエンジニアだった。鈴木氏は、英国レスター大学院卒。読売新聞、下野新聞記者を務めた。英国レスター大学留学。
当日有権者数は58,646人。投票率は47.85%(前回無投票、前々回の11年は53.53%)。頼高氏の得票は16,989、鈴木氏は10,684だった。
同時に行われた市議選では、定数18のうち共産党は4、公明党3、立憲民主党1、日本維新1、残りは無所属となっている。
蕨市は、広さ5.11平方kmに約75,000人が暮らす日本最小のミニ都市。人口密度は、1平方kmあたり約14,000人で、国内で最も密度の高いまち。「成人式発祥の地」として知られる。
法務省の在留外国人統計(18年6月末現在)を基に、ぶぎん地域経済研究所がまとめた調査結果によれば、市区町村別の在留外国人数(居住者)は川口市が3万4905人で全国3位だった。トップは東京都新宿区の4万4652人、2位は同江戸川区の3万5648人。県内では2位が川越市の8204人、3位が戸田市の7186人。
県内の在留外国人数は17万3887人で全国5位だった。
厚生労働省の外国人雇用状況によると、18年10月現在6万5290人で全国5位。在留資格別にみると、「技能実習」の在留資格は1万3150人、全国6位で全体の20.1%を占める。
国籍別でみると、ベトナムが1万6572人でトップ、2位は中国の1万4239人、3位がフィリピンの1万642人。働く業種で最も多いのは製造業2万5827人、次いで建設業6505人、卸・小売業6253人。
主な理由は、「鉄道や道路が便利」(45%)が最も多く、「犯罪が少なくて安心」(41%)、「住まいを見つけやすい」(36%)が続いた。
県議選投票率 全国最低を記録
県議選(定数93 52選挙区)とさいたま市議選(定数60 10選挙区)は19年4月7日投開票された。
県議選では、自民党が48議席を獲得、単独過半数を維持した。野党の立憲民主党(7議席)と国民民主党(4議席)は合わせても11議席にとどまった。
投票率は県議、市議選とも過去最低だった。県議選では前回(37.68%)を2.16ポイント下回る35.52%で、同日投開票された全国41都道府県の中でも最低を記録した。
県議選で投票率がもっとも低かったのは、2議席を4人で争った東10区(三郷市)の27.77%で全選挙区唯一の20%台だった。南20区(戸田市)の31.71%、南21区(朝霞市)の32・02%が続いた。
最も高かったのは、自民党現職と無所属新人による一騎打ちとなった南3区(さいたま市西区)の40.67%だった。
さいたま市議選の投票率も、過去最低だった前回選(40.39%)を2.23ポイント下回る38.16%だった。
埼玉大社会調査研究センター長の松本正生教授は「東京に通勤する県民も多く、県という単位を意識しづらい。今回は無投票の選挙区が22に上った上に大きな争点がなく、県民の関心が高まらなかった」と指摘している(朝日)。
「埼玉県は陸運の王者・陸王」 知事
埼玉県の09年~18年の企業の転入超過数(転入~転出を差し引いた数)は743社だった。08~17年の超過数を118社下回ったものの全国トップを維持した。1年の転入超過数は11年の102社を最後に、7年連続で2桁の社数となっている。帝国データバンク大宮支店が19年3月26日発表した全国の本店移転企業調査によるものである。。
2位は神奈川県、3位が千葉県、4位が茨城県で、首都圏中央連絡自動車道(圏央道)が通るこの4県がベスト4を占めた。他都道府県から県内に転入した企業数は2263社で08~17年を97社下回った。転出は1520社で21社増だった。転入企業の転入元は、東京都の1892社(83.6%)が最高、千葉県86社、神奈川県63社と続いた。
同支店では「高速道路や鉄道網など交通インフラが充実、都内に近く、地下が安く広い土地を確保しやすい点が評価されている。災害が少ない点も大きく、圏央道沿いを中心に転入が進んでいる」としている。転入企業を業種別に見ると、卸売業が957社(24.6%)で最多。サービス業、製造業が20%台で続いている。
上田知事も期せずして「彩の国だより」4月号の知事コラムで、「企業本社の転入超過数、いわゆる純増も平成29(2017)年までの10年間で第1位となっている」と書いている。その理由は「地政学」から分析できるという。
本県には、東京を中心に放射状に延びる関越道、東北道、常磐道が東西方向に走る外環道と圏央道により直結する高速道路ネットワークが形成されている。この道路網は、今に始まったことではなく、中世、近世、現代と時代を超えて歴史的に脈々とつながっている。
鎌倉時代には「鎌倉街道」。この街道にはメインとなる5本の街道があった。西は京都方面に向かう「京の道」(現在の東名高速ライン)、東の「下(しも)の道」は茨城方面に抜ける常磐道ライン、「中の道」は栃木方面で東北道のライン、「上(かみ)の道」は関越道のラインで群馬方面に抜ける道、もう一つ飯能から秩父へ抜ける「山の道」もあった。「京の道」を除く4本が武蔵国を通っていた。
江戸時代になると「5街道」ができ、中山道、日光街道、・奥州街道が本県を通り、中山道から分岐した川越街道や日光御成道も整備された。
今は鉄道の在来線はもとより、新幹線は大宮駅を起点に東日本エリアをカバー、大宮駅のホームの数は、JRの駅では東京駅、上野駅についで第3位の多さ。
「埼玉県は中世以来、陸運の王者・陸王」。改めて埼玉県の強さを知っていただけたのではないか、というのである。
直近の推計人口増加率では、沖縄県を抜き東京都に次ぐ全国2位に上昇、平成27(2015)年度までの10年間の県内総生産増加額は名目が第3位、実質は第2位、同期間の県民所得増加額も約1兆1000億円(第2位の宮城県は約6000億円)で第1位だとか。
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19年3月27日、平成の最後19年春場所の後に貴景勝(たかけいしょう 22)が入門から丸4年で関脇から大関に昇進、豪栄道(32)に並んで大関二人の地位を埼玉県関係力士が占めた。これに先立ち、同年2月には北勝富士(ほくとふじ 26)が前頭2枚目から小結に昇進した。
貴景勝が兵庫県芦屋市、豪栄道が大阪府寝屋川市と、出身地こそ埼玉県ではないものの、出身校はいずれも高校相撲の名門埼玉栄高(さいたま市西区)である。埼玉栄出身力士は、角界の一大勢力になろうとしている。
北勝富士は生まれながら埼玉県の所沢市出身で、19年2月26日前頭2枚目から小結昇進が決まった時には、「県内出身が三役の小結になるのは、1959年若秩父(秩父市出身)以来60年ぶり」と騒がれた。若秩父は秩父農工科学高出身で、関脇で引退した。
北勝富士の相撲との関わりは、小学年のとき所沢市のわんぱく相撲に応募したのが初めてで、入間少年相撲クラブで稽古に励んだ。その後日体大2年で大学横綱になった。北勝富士は昇格の際、同クラブを訪れ、西沢正夫監督(56)の元で練習する後輩11人と交流した。
貴景勝が相撲を始めたのは小学3年。相撲好きの父親からスパルタ教育を受けた。兵庫・報徳学園中3年で中学横綱に輝き、大相撲入りを考えていた。
貴景勝に埼玉栄高校進学を勧めたのが、同校相撲部の山田道紀監督だった。「けがをしない体を高校でつくってプロに行け」と何度も兵庫に足を運んで説得に当たった。
監督は、相撲の名門校である兵庫県市川高校出身で、日大相撲部時代、全日本体重別無差別級で準優勝、1988年から埼玉栄高相撲部の監督を務めている。埼玉栄高校は学校法人佐藤栄学園が経営する私立中高一貫校で、設置学科に「保健体育科」があるのが特徴で、相撲以外のスポーツでも全国的に活躍している。
年齢から見て埼玉栄出身力士のトップになる豪栄道は、本名の豪太郎の「豪」に埼玉栄の「栄」、監督の道紀の「道」から一字ずつもらってしこ名をつけているほど結束は固い。
19年3月場所現在で、平幕妙義龍(32)を含め十両以上の関取10人、幕下以下にも元横綱大鵬の孫の納谷(19)、春場所で初土俵を踏んだ高校個人5冠の北の若(18)ら若手の有望力士もそろっている。
18年2月に98歳で亡くなった秩父郡皆野町出身の俳人金子兜太さん忍ぶため、同町の「兜太・産土(うぶすな)の会」は、兜太さんの生誕100年に当たる19年9月23日に実家の旧病院を改修して「壺春堂記念館」を開設することを決めた。
1500万円と見込まれる総費用は寄付を募って集める。すでに兜太さんが主宰した俳句誌「海程」旧同人からは200万円が寄せられているという。
木造トタンぶきの建物(床面積120平方m)のうち、兜太さんが遊んだりした客間や仏間などを保存し、愛用の文具などを展示する。残りの診療所や台所はカフェスペースにし、「兜太ファンの聖地にしたい」と意気込んでいる。
壺春堂は、兜太さんの父親で秩父音頭の生みの親である金子元春さん(俳号・伊昔紅)が開業していた病院の名前だ。兜太さんは、皆野小から旧制熊谷中まで壺春堂で起居していた。今は兜太さんのおいの金子桃刀(ももと)さんが同じ敷地で金子医院を開いている。