ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

浦和競馬場でJBCを初開催 地元馬が金星 さいたま市

2019年11月11日 10時43分01秒 | 市町村の話題

ダート(砂)競馬の祭典で、日本の地方競馬最大の祭典であるJBCが19年11月4日、スタンド浦和競馬場で開場以来71年で初めて開催された。

中央競馬との交流で最もグレードが高い(G1)レースの一つ「JBCスプリント」で、浦和の小久保智厩舎所属のブルドッグボス(牡7歳)が優勝、浦和所属馬初のGI制覇を達成した。レース売上金も58億円超と、同競馬場の記録を大幅に更新した。入場者は2万9191人で、最近の同競馬場では屈指の大入りとなった。

JBCは、米国のブリーダーズ・カップを手本に2001年に創設、南関東に4場ある地方競馬のうち、浦和以外の3場(大井、川崎、船橋)は開催済み。浦和は、約30億円をかけて9月に2号スタンドをオープン、この日のために備えていた。

JBCスプリント(短距離1400m)には、中央競馬唯一の女性騎手・藤田菜七子騎手がコパノキッキングに騎乗してG1初制覇を狙ったこともあり、今年のJBC3戦のうち最も注目を集めた。

御神本訓史(みかもとのりふみ)騎手が乗るブルドッグボスは、6番人気の伏兵だったが、最終コーナーを5番手で回ってから、コパノをゴール寸前でとらえて優勝した。
















半数以上が中國などの外国人 「共生」の試み 川口芝園団地

2019年10月25日 10時17分47秒 | 人口(外国人)

川口市芝園町にある都市再生機構(UR)の芝園団地は、築約40年、最高15階建ての賃貸住宅15棟(約2500戸)に約5千人が住む。JR京浜東北線蕨駅から徒歩約7分。東京駅まで約30分。家賃が手ごろで、礼金、敷金不要などの条件が人気を呼び、2015年11月に、中国人など外国人の入居者が半数の2500人を超えた。20年前の10倍。そのほとんどは中国人だ。

中国人は、都内のIT企業に勤める20代後半~40代前半が中心の子育て世代で、比較的高収入の人が多い。完成当初から暮らす日本人の多くは、子育てを終えた65歳以上の高齢者である。

自治会には15年度から中国人の役員もいる。自治会の要請で団地のURの管理事務所が12年、中国語通訳を配置、ゴミの出し方など暮らし方のルールの掲示にも中国語を併記した。14年4月から団地に移り住み、17年から自治会事務局長になった岡崎広樹さんを中心に中国人との人間関係も築かれた。総合商社をやめて松下政経塾で学んだ岡崎さんは、一般財団法人に勤めている。

15年には大学生ボランティア団体「芝園かけはしプロジェクト」が結成された。東京大学大学院の円山王国さんが代表を務め、多くの大学から数十人が活動している。14年には中国人への偏見に基づくベンチの落書きを、日本人と外国人が一緒にペンキで塗り消した。

このプロジェクトで16年から毎月、「多文化交流クラブ」が開かれ、中国人が教師役の中国語教室、書道教室、太極拳体験などを続ける。夏には自治会とともにふるさと祭りを開く。

このような中国人と日本人の溝を埋める多文化共生の取り組みに対し、国際交流基金は1月23日、「地球市民賞」を贈った。この賞は1985年、外国人との連携を深める団体などを支援するために創設されたもので、県内では朝霞市に次いで2例目だ。

県は18年2月7日、「埼玉グローバル賞」の地球国際化分野で、芝園団地自治会(韮沢勝司会長)を表彰した。

中國には自治会がないので、自治会に加入していない中国人も多く、「共生」を目指しながらもも「まだ共存の段階」と語る関係者が多い。

芝園団地は、新幹線を製造していた日本車両製造の蕨工場跡地に建てられたもので、19年10月、「新幹線電車発祥の地」の記念碑が建てられた。













「ワラビスタン」 蕨、川口市

2019年10月15日 11時14分47秒 | 人口(外国人)

 
国はないが、主にトルコ、イラク、シリア、イランの国境にまたがる山岳地帯「クルディスタン」に住むクルド人。総人口は推定約3000万人。イスラム教徒が多く、イラン語系のクルド語を話し、各国で独立を求め、抑圧されてきた歴史がある。「国家を持たない世界最大の民族」と呼ばれる。
 
言葉が通ずるイラン人が住んでいたため、知人を頼って来日、難民認定を求め、申請しているが、日本政府は認めていない。認定率は10%以下だという。不法滞在として、働くことさえ認めておらず、健康保険証や住民票や身分証明書も発行していない。
 
トルコでは、政府と独立を求めるクルド人武装勢力の衝突が続いているので、知人を頼って来日するトルコ国籍のクルド人が多い。
 
都心に近く、交通の便が良く、家賃が安いこともあって、1990年代から蕨、川口市に集まり、日本最大のクルド人コミュニティーになっている。2000人程度が住んでいるJR駅に近い両市の一帯は、「クルディスタン」をもじって「ワラビスタン」と呼ばれることもある。「スタン」とは、国・地域を表す言葉だ
 
不法滞在なので、生活のため働いていると、不法就労で、入管難民法違反で逮捕され、茨城県牛久市の入管施設「東日本入国管理センタ」に3年以上長期収容され、一時的に施設を出られる「仮放免」が得られるだけ。いつ仮放免が得られるか分からないので、拘禁性のうつ病になったり、自殺する者もある。「ワラビスタン」のクルド人うち約500人が仮放免と見られるという。
 
クルド文化の発信や地域との交流を進めるため「クルディスタン&日本友好協会」、支援する日本人側の「クルドを知る会」があり、3月には蕨市民公園で約千人が参加して、クルド伝来の新年祭り「ネブローズ」があり、民族衣装を着て、音楽に合わせ歌い踊っている。

金子兜太百年祭 皆野町

2019年09月27日 16時37分45秒 | 金子兜太



18年2月に98歳で亡くなった俳人、金子兜太さんの生誕百年になる19年9月23日、少年期を過ごした秩父の皆野町で「金子兜太百年祭」が、町の文化会館ホールで開かれた。

同時に、医師だった父親の元春さんが開業した医院「壺春堂=こしゅんどう」で、兜太さんの記念館になる「壺春堂記念館」が初めてお披露目された。兜太さんの実家で、皆野小から旧制熊谷中までここで過ごした。

元春さんも、俳号「伊昔紅=いせきこう)を持つ俳人で、ここで句会を開いていた。伊昔紅は皆野町の代名詞になっている「秩父音頭」を周りの協力を得て、卑猥なものから全国に通用する民謡に創り変えた。

木造2階建てのこの記念館は、同じ敷地内で医院を継いだ兜太さんのおいでの桃刀=ももと=さんやゆかりの人たちの「兜太・産土=うぶすな=の会」が改修・保存・寄付を呼びかけ、屋根や外壁などの修復が進行中。カフェなども年内にオープンする予定で、会では記念館を「兜太ファンの聖地」にするとともに、国の登録有形文化財にする手続きを進めている(毎日新聞)。

午後に開かれた百年祭には、全国から集まった兜太ファンなどホールの定数満席の約600人が集まった。舞台の両脇には、この祭りには出席できなかった瀬戸内寂聴さんの大きな花束が置かれ、俳人・宇多喜代子さんはぎりぎりで大阪から新幹線でかけつけた。

ドキュメンタリービデオ「天地悠悠 兜太・俳句の一本道」(74分)が上映された後、俳人・黒田杏子さんの司会で、俳句誌「兜太TOTA」、兜太さんの「海程」同人などの俳句関係者ら13人によるリレートークがあり、興味深いエピソードが次々に披露された。

この映画は、兜太さんが最後を迎えるまでのあしかけ7年を兜太俳句を軸に映像に収めたもので、監督は,NHKのディレクター・プロデューサーの河邑厚徳=かわむら・あつのり=氏。

ガンや認知症をわずらった話もあり、最後の言葉はファンにとって必見のビデオになるだろう。



見沼通船堀の閘門 開閉実験 さいたま市

2019年09月16日 11時03分20秒 | 川・水・見沼
見沼通船堀の閘門 開閉実演 さいたま市

一度見てみたいものだと思いながらも毎年行けず、「今度こそ」と勢い込んで自転車で出かけた。

2010年8月25日は処暑を過ぎたのに猛暑の真っ盛り。暑さで知られる熊谷市などと並んで、さいたま市もNHKの天気予報で「35度を超すでしょう」組に挙げられていたから、午前10時前だというのに、着いたらもう汗でぐっしょりだ。

驚いたのは、堀沿いをぎっしり埋めた人出である。1982年以来の「国指定史跡」だから、さいたま市のシニア大学北浦和分校の「史跡めぐり」の”学生さん“たちなど老人が多いのはうなずける。夏休みの宿題の「自由研究」にはうってつけだと、母親と一緒の小学生たちも大きなノートを持ってせっせとメモしていた。

10時と15時の二回、実演された。「今年も3千人くらいでしょうか」とのこと。「見沼通船舟歌」の歌詞を刷り込んだうちわとともに、通船堀と見沼代用水路の資料が渡され、さいたま市教育委員会の文化財保護課の専門家がマイクで一々解説してくれる。

難しい言葉ばかりだ。「見沼」、「見沼代用水路」、「通船堀」、「閘門(こうもん)」。さいたま市民でも知らない人が多いので、非常に助かる。

「見沼」と言っても、本当の沼があるのではない。芝川の低湿地に形成された「見沼」は、江戸時代初期に「溜井」になり、農業用水に使われていた。それが八代将軍徳川吉宗の新田開発で干拓され、「見沼たんぼ」に代わった。

見沼に代わって、利根川の行田で取水した農業用水を供給するのが「見沼代用水」だ。「見沼溜井の代替用水路」という意味である。幹線水路は約60。支線を含めると約100キロ㍍。完成したのは1728年(享保13年)。約1200町歩(約1200㌶)の新田が生まれた。

灌漑面積は200余か村、12600㌶におよび、幕府の米の収入は、毎年5千石増えた。

吉宗が紀州(和歌山県)から呼び寄せた農業土木技術”紀州流”の達人、井沢弥惣兵衛為永の手で、延べ90万人を使い6か月で完成した。こんな短期に完成したのは、冬場の農閑期に工事をしたので、人手が確保できた、工区分けをして各村で工事を請け負った、手間のかかる構造物は、江戸の大工が受け持ったのと、事前に綿密な測量と計画がなされたためとされる。

「見沼たんぼ」は、現在の見沼区から緑区を中心に広がる。広さは約1200㌶。首都圏に唯一残された一大緑地で、さいたま市が誇るべき財産。だが現在、たんぼが広がっているわけではない。

見沼代用水は、東側の東縁(16キロ㍍)と西側の西縁(22キロ㍍)に分かれ、その中間をたんぼの排水路である「芝川」が流れる。縁は「べり」と読み、「ふち」と読むと、この地では馬鹿にされる。

さいたま市と川口市が接するさいたま市の最南端の、芝川と東縁、西縁が最も接近する緑区大間木で、三つの用水路を東西に結ぶのが、約1キロの「通船堀」。水はちょろちょろ流れているものの、現在使われてはいない。この堀を使って、全盛期はたんぼの収穫米が江戸に出荷されていた。

最も難しいのは「閘門(こうもん)」である。辞書を引くと、「高低の差のある水面で船を昇降させたり、水量を調節したりする装置の水門」とある。漢和辞典を見ると、「閘」とは、「門をあけたてすること」だという。

芝川は東縁、西縁より3㍍低かった。江戸から着いた荷物を縁まで運び上げるためには、通船堀に二つの関(閘門)を設け、門を閉めて関の中に水を貯め、水位を上昇させてから船を進ませる必要があった。

「船が山を登る」パナマ運河と同じ方式である。ヨーロッパや中国では古くから建造されていた。日本の閘門もパナマ運河(1914年開通)よりもちろん古い。見沼代用水の3年後1731(享保16)年に開通した見沼通船堀は、「日本最古」が触れ込みだった。最近では他にもっと古いところもあると分かってきたので、「最古」は使わないようになった。

これも井沢弥惣兵衛為永の手になるものである。

この日は、通船堀東縁の芝川寄りの一の関と二の関の間(90㍍)で、当時の半分に縮尺した、底が平らな「ひらたふね」を浮かべ、一の関(幅約3㍍)の柱に「角落(かくおとし)」と呼ばれる高さ約18センチメートル、厚さ約6センチメートルの木枠を下から順に8枚、2㍍近くまで積み上げて、水をせき止め、水位を上昇させる姿が再現された。(写真)

芝川は荒川(隅田川)に流れこむので江戸と結ばれていた。芝川の堤防(八丁堤防)に船が着くと、堀沿いに住み込んでいた船頭20人ぐらいが通船堀の土手から綱を引いて一の関まで引き上げたという。

この日は、地元の保存会による当時の「見沼通船船頭歌」や踊りも披露され、当時をしのんだ。暑さにめげず来た甲斐があったイベントだ。

県は19年9月4日、この用水は国際かんがい排水委員会(ICID、本部インド)」が定める「世界かんがい施設遺産」に選ばれたと発表した。この制度は14年に始まり、18年8月までに国内で35施設が登録されている。

県知事に大野元裕・前参院議員が初当選

2019年08月29日 16時08分59秒 | 県全般
県知事に大野元裕・前参院議員が初当選

19年8月25日実施された県知事選で、4選16年務めた上田清司前知事(71)の路線の継承と発展を唱えて積極的な支援を受け、立憲民主、国民民主、社民各県連に支持された大野元裕・前参議院議員(55)が、自民、公明党の推薦を受けた、元プロ野球選手でスポーツライターの青島健太氏(61)を約6万票差で破り、初当選した。開票結果は約92万票だった。
 
知事選投票率は11年に24.89%と全国の知事選で過去最低を記録、07年以来過去3回20%台の低水準が続いていたので、事実上の「与野党対決」がどう反映するか注目されていたが、32.31%にとどまった。16年ぶりに30%を超えたとはいえ、上田前知事が初当選した03年の35.80%を下回った。
 
大野新知事は、川口市出身で、祖父は大野元美氏、川口市長だった。このような縁で大野氏も自民党の有力候補の一人で、川口商工会議所の政治組織が、大野氏が無所属で出馬表明前に、自民党県連の新藤義孝会長に自民の推薦を求める嘆願書を提出したほどだった。
 
慶応大卒後、国際大学修士課程で中東地域研究を専攻、外務省の調査員、書記官。中東調査会研究員も。5年間、防衛省防衛戦略委員会委員も務めた。県選出の参議院議員2期。内閣府大臣政務官、防衛大臣政務官も。経営者として(株)ゼネラルサービス専務取締役を務めた。
 
新知事の参院議員辞職に伴い、参院埼玉選挙区補欠選挙(10月10日告示、27日投開票)」があり、上田前知事は9月20日、無所属で参院選に出馬すると明らかにした。前知事は衆院議員2期、知事4期16年を務めた。


渋沢栄一 一万円札の肖像画に登場 「論語の里」に人気 深谷市

2019年08月14日 16時53分26秒 | 偉人①渋沢栄一

 

渋沢栄一 一万円札の肖像に登場 「論語の里」に人気 深谷市

24年に発行される新1万円札の肖像に「日本の資本主義の父」とされる実業家の渋沢栄一を起用すると、麻生財務相が19年4月9日の会見で発表して以来、地元の深谷市の「論語の里」の人気が高まっている。

同市下手計(しもてばか)にある渋沢栄一記念館、7歳の頃から論語を学んだ10歳上の従兄弟で義理の兄、尾高惇忠(じゅんちゅう)が漢学の塾を開いていた下手計の記念館に近い惇忠の生家周辺、栄一が初代頭取を務めた第一銀行を喜寿で辞任した際、行員たちが出資を募って建てた近くの誠之堂、栄一の生家旧渋沢邸のある「中の家(なかんち)」(血洗島)といった栄一ゆかりの地が、深谷市がPRしている「論語の里」である。

記念館には19年度の来館者が20年1月22日、18年度の6倍を超える10万人を突破した。
21年のNHK大河ドラマが渋沢の生涯を描いた「青天を衝(つ)け」に決まったことが拍車をかけた。深谷公民館には「大河ドラマ館」が新設される。

栄一は、惇忠を尊敬していて、後年「藍香(らんこう 惇忠の号)ありて青淵(せいえん 栄一の号)あり」と語っている。栄一は、論語の精神に則り、単なる利益追求ではない「道徳経済合一説」を唱え、約500社の企業の創設や育成に関わる一方、身寄りのない子どもや高齢者のための東京市養育院の院長を務めるなど約600の社会福祉・教育活動にも関係した。「論語と算盤(そろばん)」という著書もある。これも惇忠の論語教育の影響とされる。惇忠は維新後、富岡製糸場初代場長を務めた。

深谷市は人口減少が進み、観光客数も伸び悩んでいる。降ってわいたこのブームを一過性のものに終わらせまいと、市は「生誕の地」として売り出そうとしている。新一万円札の裏面のデザインである「東京駅丸の内駅舎」で使用されたレンガの一部は、深谷市上敷面にあった日本煉瓦製造株式会社で製造されたレンガを使用しており、新一万円札は表も裏も深谷市ゆかりの人とモノが採用されているからだ。日本煉瓦製造は国指定重要文化財になっている。

新札の発行は、24年度上期からだが、市では栄一ゆかりの施設巡回バスの運行を始めたほか、ふるさと納税のサイトにアクセスが殺到しているので、返礼グッズに、栄一の似顔絵と文字がなつ印できるスタンプ型印鑑や写真を使ったお札型のセット、雅号が入った純米酒とグラスのセットなどを用意している。栄一のロゴマークも91種制作した。

「道の駅おかべ」には、栄一にちなんだ食品やグッズの渋沢コーナーが設けられ、菓子店ではフードプリンターで顔を描いた「渋沢栄一最中」が登場、駅近くでは栄一の顔をミルクの上に描いたカフェオレを飲める店もある。栄一のネーム印、写真を印刷した手作り封筒などもよく売れている。市では観光客が毎年400万人前後と伸び悩んでいるので「観光の起爆剤に」という期待も高い。

深谷市は、容姿や動きを精密に再現し、遠隔操作などで動く栄一のアンドロイド(人間型ロボット)2体の製作にとりかかった。

同市出身のドトールコーヒー創業者の鳥羽博道名誉会長(81)からの寄付金1億円によるもので、一体は新1万円札の肖像に近い、70歳ごろの洋装で立ち姿で等身大の1m53cm、もう一体は和服でくつろいだ80歳ぐらいの座り姿にする。

洋装のアンドロイドは、新札の肖像決定からほぼ1年後の20年6月30日に除幕(写真)、渋沢栄一記念館(同市下手計)の2階講義室で 7月3日から「論語と算盤(そろばん)」に代表される「道徳経済合一説」などの栄一思想の講話を肉声の録音をもとに身振り手振りを交えて始めた。

和装の方は、22年春完成、旧渋沢邸「中の家(中んち)」で生い立ちや家族の話をする予定。遅れるのは、「中の家」が改修に入るためだ。

アンドロイド制作の第一人者とされ、二松学舎大が16年に作らせた「夏目漱石アンドロイド」を手掛けた石黒浩・大阪大教授が監修、アンドロイド制作会社「エーラボ」(東京都千代田区)が現存する栄一の写真や音声を参考にして作業に当たる。

紙幣の刷新は04年以来、20年ぶり。1万円札の人物変更は聖徳太子から福沢諭吉に代わった84年以来。1963年、千円札の顔を選ぶ際、栄一は伊藤博文と最終選考まで残ったものの、当時の技術では、ひげがないと偽造されやすいという理由で伊藤博文が選ばれた・・・など話題も豊富だ。

 


渋沢栄一  "小さな巨人”  深谷市血洗島

2019年08月13日 12時00分00秒 | 偉人①渋沢栄一
渋沢栄一 “小さな巨人” 血洗島 

血洗島――。なんと凄まじい名前だろう。

「日本資本主義の父」「近代日本経済の父」と呼ばれた。1840(天保11)年に生まれ、1931(昭和6)年、91歳で没した“小さな巨人”渋沢栄一(写真は深谷駅前の像)。米国の経営学者ピーター・ドラッカーが「最も尊敬する人物」として挙げたこの人は、埼玉県だけでなく、全国に知られている。

義太夫、囲碁、将棋、なんでもござれ。それに女性も大好き。身長は150cmしかなかったので、礼服のフロックコートの銅像を造ろうとしたら、見える足が余りに短いので坐像に変えたという逸話の持ち主。ビジネスマンとして初の子爵になった。

資料を読んだり、足跡を訪ねたりし始めて、一年を超す。まず驚いたのが、生まれ故郷の「武蔵国榛原郡血洗島村」という地名のおどろおどろしさだった。

昔の地名が、あっさり現代風に改名される浅薄な風潮の中で、「血洗島」は深谷市の大字として残っているのが本当にうれしい。埼玉県の「彩の国お出かけMAP」の上にも、「渋沢栄一生家」「渋沢栄一記念館」の所在地名として明記されている。

二度ほど生家付近を歩き、全国に知られる深谷名物のネギの香りが、風に漂うのをかいだ時もこの地図を手にしていた。

地図を見れば明らかな通り、血洗島は、埼玉の北の果て、県北中の県北、群馬県と境を分ける利根川の近くにある。

若い頃、群馬県で2年ほど仕事をしていたので、利根川にはひとしお思い入れがある。群馬・埼玉県境、茨城・千葉県境をつくり、銚子で太平洋に注ぐ信濃川に次ぎ日本で2番目に長い川である。

演歌狂いなので、利根川といえば、田端義夫が歌う「大利根月夜」が好きだ。道場仕込みの侍ながら、ヤクザの用心棒に身をやつした平手造酒の舞台は、もっと下流だ。

軽率な思い込みが身上だから、血洗島もヤクザ同士の血で血を洗う血戦が展開されたのだろうと勝手に思っていた。

これはとんでもない思い違いで、利根川の氾濫で土地が洗われるので、「チアライジマ」、土地が荒れているから「チアレジマ」が転じて「チアライジマ」と呼ばれるようになったというのが、最も有力な説のようだ。無知ほど怖いものはない

この他にも、赤城山の地霊(ムカデ)が日光の山の地霊(大蛇)と戦場ヶ原で闘って、片腕をくじかれ、その血を洗った。平安時代、八幡太郎義家の奥州遠征の際、この辺で合戦があり、家臣の一人が切り落とされた片手を洗った。アイヌ語で「ケッセン」は「岸、末端、」という意味で、その当て字「血洗」から・・・といったいろいろな言い伝えがある。

ところが、合理主義者だった栄一は「田舎者の話であることは言うまでもない」と、にべもなくこだわらなかったという。

「血洗島」の「島」は、利根川の氾濫原に4つの瀬と8つの島があったからだという(以上、深谷市のホームページによる)。

実際、私のような好奇心の持ち主は、いつの時代にもいるようだ。栄一も各地で「よく由来を聞かれた」と語っており、辟易していたことだろう。

赤城山と日光の山が戦ったという言い伝えは、群馬でも聞いたことがある。この言い伝えにはストーリーとしての魅力はあるものの、氾濫説やアイヌ語説の方に説得力がありそうだ。

血洗島は赤城山を仰ぎ、冬には「赤城おろし」をまともに受けるところにある。栄一の生家の裏には「十六文たんぼ」という赤城おろしが吹き抜ける田んぼがあったという。十六文出して酒を一杯ひっかけても、通るとたちまちさめてしまうほど寒いのでその名があったとか(「埼玉の偉人 渋沢栄一」韮塚一三郎著による)。

栄一とともに埼玉県の誇る「群書類従」を編んだ全盲の大学者、塙保己一の生まれた現在の本庄市児玉もやや西側だが、同じ県北で「赤城おろし」にさらされるところだった。

この二人に日本初の公認女医、荻野吟子を加えて、「埼玉出身の三偉人」と称えられる。吟子の出身地も、現在の熊谷市俵瀬で、利根川からわずか南の県北中の県北。この三人がいずれもぎりぎりの県北出身なのは単に偶然だったのだろうか。

ところが、講演などを聞いていると、渋沢一族は1500年代に、現在は山梨県の小渕沢近くの渋沢村から移住して来たのだというのだ、生粋の武蔵人ではないらしい。

藍づくりや質屋も営む豪農、渋沢市郎右衛門の長男として生まれ、幼名市三郎。19歳で結婚、栄一と改名。22歳で江戸に出て塾に通い、剣道は千葉道場で北辰一刀流を学んだ。

尊王攘夷派として24歳で高崎城乗っ取りを図るが、説得されて京都に逃れ、一橋慶喜に仕官した。28歳で慶喜の弟の徳川昭武の随員でパリの万博に参加、新しい世界に触れ、新しい人生が始まる。

18年の県内の認知症不明者 全国で2番目

2019年08月05日 15時07分57秒 | 医学


埼玉県は18年に、認知症か、その疑いで行方不明になって警察に届け出があったのは、17年より48人多い1782人(男性984人、女性798人)で、全国で2番目に多かった。統計のある12年以降、毎年増加し、過去最多を更新している。

県警と警察庁の調べによるもので、全国では前年比1064人増の1万6927人。12年と比べ1.76倍、毎年増え、過去最多を更新している。都道府県別に見ると、大阪が最多の2117人、2位が埼玉で、兵庫の1585人が続いている。


現在、全国唯一の共産党市長が4選 蕨市

2019年06月06日 18時01分27秒 | 市町村の話題


蕨市長選が19年6月2日投開票され、現在、共産党籍を持つ全国唯一の市長頼高英雄氏(55)が新人で元読売新聞記者の鈴木直志氏(50)を破り4選された。

頼高氏は、共産党市議から3度の市長選挑戦で07年に初当選、3期12年を務めた。今回の選挙戦でも、党籍を残しながら推薦を受けず無所属で出馬した。

鈴木氏も当初は、どの政党の推薦も受けない方針だったが、自民党の推薦を得て、さらに公明党市議団の支持も獲得、政党の応援を得て戦った。

頼高氏は、蕨市生まれ、埼玉大学教養学部卒、IT会社員でシステムエンジニアだった。鈴木氏は、英国レスター大学院卒。読売新聞、下野新聞記者を務めた。英国レスター大学留学。

当日有権者数は58,646人。投票率は47.85%(前回無投票、前々回の11年は53.53%)。頼高氏の得票は16,989、鈴木氏は10,684だった。

同時に行われた市議選では、定数18のうち共産党は4、公明党3、立憲民主党1、日本維新1、残りは無所属となっている。

蕨市は、広さ5.11平方kmに約75,000人が暮らす日本最小のミニ都市。人口密度は、1平方kmあたり約14,000人で、国内で最も密度の高いまち。「成人式発祥の地」として知られる。

 

 


市区町村別・在留外国人数 川口市が全国3位

2019年04月14日 17時19分47秒 | 人口(外国人)


法務省の在留外国人統計(18年6月末現在)を基に、ぶぎん地域経済研究所がまとめた調査結果によれば、市区町村別の在留外国人数(居住者)は川口市が3万4905人で全国3位だった。トップは東京都新宿区の4万4652人、2位は同江戸川区の3万5648人。県内では2位が川越市の8204人、3位が戸田市の7186人。

県内の在留外国人数は17万3887人で全国5位だった。

厚生労働省の外国人雇用状況によると、18年10月現在6万5290人で全国5位。在留資格別にみると、「技能実習」の在留資格は1万3150人、全国6位で全体の20.1%を占める。

国籍別でみると、ベトナムが1万6572人でトップ、2位は中国の1万4239人、3位がフィリピンの1万642人。働く業種で最も多いのは製造業2万5827人、次いで建設業6505人、卸・小売業6253人。

19年4月16日、22年ぶりに開校した公立夜間中学の埼玉県川口市立芝西中学校陽春分校の10~80代の77人の生徒の47人は外国人で占められ、国籍も21人の中国を筆頭に、韓国、トルコ、ペルー、アフガニスタン、パキスタンなど10か国以上に上る。 川口市にはボランティアが外国人たちに勉強や日本語を教える19年までに34年の歴史がある川口自主夜間中学もあった。

県内に在住、在勤、通学の61か国・地域の外国人1520人から回答を得た県のアンケート調査(18年10月~19年1月)によると、「暮らしやすい」と答えたのが55%、「やや暮らしやすい」が37%で、計92%が県内の暮らしに満足していた。

主な理由は、「鉄道や道路が便利」(45%)が最も多く、「犯罪が少なくて安心」(41%)、「住まいを見つけやすい」(36%)が続いた。

 


県議選投票率 全国最低を記録

2019年04月13日 14時50分54秒 | 県全般

県議選投票率 全国最低を記録

県議選(定数93 52選挙区)とさいたま市議選(定数60 10選挙区)は19年4月7日投開票された。

県議選では、自民党が48議席を獲得、単独過半数を維持した。野党の立憲民主党(7議席)と国民民主党(4議席)は合わせても11議席にとどまった。

投票率は県議、市議選とも過去最低だった。県議選では前回(37.68%)を2.16ポイント下回る35.52%で、同日投開票された全国41都道府県の中でも最低を記録した。

県議選で投票率がもっとも低かったのは、2議席を4人で争った東10区(三郷市)の27.77%で全選挙区唯一の20%台だった。南20区(戸田市)の31.71%、南21区(朝霞市)の32・02%が続いた。

最も高かったのは、自民党現職と無所属新人による一騎打ちとなった南3区(さいたま市西区)の40.67%だった。

さいたま市議選の投票率も、過去最低だった前回選(40.39%)を2.23ポイント下回る38.16%だった。

埼玉大社会調査研究センター長の松本正生教授は「東京に通勤する県民も多く、県という単位を意識しづらい。今回は無投票の選挙区が22に上った上に大きな争点がなく、県民の関心が高まらなかった」と指摘している(朝日)。

 


「埼玉県は陸運の王者・陸王」 知事

2019年04月01日 15時57分27秒 | 県全般

「埼玉県は陸運の王者・陸王」  知事

埼玉県の09年~18年の企業の転入超過数(転入~転出を差し引いた数)は743社だった。08~17年の超過数を118社下回ったものの全国トップを維持した。1年の転入超過数は11年の102社を最後に、7年連続で2桁の社数となっている。帝国データバンク大宮支店が19年3月26日発表した全国の本店移転企業調査によるものである。。

2位は神奈川県、3位が千葉県、4位が茨城県で、首都圏中央連絡自動車道(圏央道)が通るこの4県がベスト4を占めた。他都道府県から県内に転入した企業数は2263社で08~17年を97社下回った。転出は1520社で21社増だった。転入企業の転入元は、東京都の1892社(83.6%)が最高、千葉県86社、神奈川県63社と続いた。

同支店では「高速道路や鉄道網など交通インフラが充実、都内に近く、地下が安く広い土地を確保しやすい点が評価されている。災害が少ない点も大きく、圏央道沿いを中心に転入が進んでいる」としている。転入企業を業種別に見ると、卸売業が957社(24.6%)で最多。サービス業、製造業が20%台で続いている。

上田知事も期せずして「彩の国だより」4月号の知事コラムで、「企業本社の転入超過数、いわゆる純増も平成29(2017)年までの10年間で第1位となっている」と書いている。その理由は「地政学」から分析できるという。

本県には、東京を中心に放射状に延びる関越道、東北道、常磐道が東西方向に走る外環道と圏央道により直結する高速道路ネットワークが形成されている。この道路網は、今に始まったことではなく、中世、近世、現代と時代を超えて歴史的に脈々とつながっている。

鎌倉時代には「鎌倉街道」。この街道にはメインとなる5本の街道があった。西は京都方面に向かう「京の道」(現在の東名高速ライン)、東の「下(しも)の道」は茨城方面に抜ける常磐道ライン、「中の道」は栃木方面で東北道のライン、「上(かみ)の道」は関越道のラインで群馬方面に抜ける道、もう一つ飯能から秩父へ抜ける「山の道」もあった。「京の道」を除く4本が武蔵国を通っていた。

江戸時代になると「5街道」ができ、中山道、日光街道、・奥州街道が本県を通り、中山道から分岐した川越街道や日光御成道も整備された。

今は鉄道の在来線はもとより、新幹線は大宮駅を起点に東日本エリアをカバー、大宮駅のホームの数は、JRの駅では東京駅、上野駅についで第3位の多さ。

「埼玉県は中世以来、陸運の王者・陸王」。改めて埼玉県の強さを知っていただけたのではないか、というのである。

直近の推計人口増加率では、沖縄県を抜き東京都に次ぐ全国2位に上昇、平成27(2015)年度までの10年間の県内総生産増加額は名目が第3位、実質は第2位、同期間の県民所得増加額も約1兆1000億円(第2位の宮城県は約6000億円)で第1位だとか。

 

 

 

 


"相撲県”狙う埼玉県

2019年04月01日 12時57分50秒 | スポーツ・自転車・ウォーキング


19年3月27日、平成の最後19年春場所の後に貴景勝(たかけいしょう 22)が入門から丸4年で関脇から大関に昇進、豪栄道(32)に並んで大関二人の地位を埼玉県関係力士が占めた。これに先立ち、同年2月には北勝富士(ほくとふじ 26)が前頭2枚目から小結に昇進した。

貴景勝が兵庫県芦屋市、豪栄道が大阪府寝屋川市と、出身地こそ埼玉県ではないものの、出身校はいずれも高校相撲の名門埼玉栄高(さいたま市西区)である。埼玉栄出身力士は、角界の一大勢力になろうとしている。

北勝富士は生まれながら埼玉県の所沢市出身で、19年2月26日前頭2枚目から小結昇進が決まった時には、「県内出身が三役の小結になるのは、1959年若秩父(秩父市出身)以来60年ぶり」と騒がれた。若秩父は秩父農工科学高出身で、関脇で引退した。

北勝富士の相撲との関わりは、小学年のとき所沢市のわんぱく相撲に応募したのが初めてで、入間少年相撲クラブで稽古に励んだ。その後日体大2年で大学横綱になった。北勝富士は昇格の際、同クラブを訪れ、西沢正夫監督(56)の元で練習する後輩11人と交流した。

貴景勝が相撲を始めたのは小学3年。相撲好きの父親からスパルタ教育を受けた。兵庫・報徳学園中3年で中学横綱に輝き、大相撲入りを考えていた。

貴景勝に埼玉栄高校進学を勧めたのが、同校相撲部の山田道紀監督だった。「けがをしない体を高校でつくってプロに行け」と何度も兵庫に足を運んで説得に当たった。

監督は、相撲の名門校である兵庫県市川高校出身で、日大相撲部時代、全日本体重別無差別級で準優勝、1988年から埼玉栄高相撲部の監督を務めている。埼玉栄高校は学校法人佐藤栄学園が経営する私立中高一貫校で、設置学科に「保健体育科」があるのが特徴で、相撲以外のスポーツでも全国的に活躍している。

 年齢から見て埼玉栄出身力士のトップになる豪栄道は、本名の豪太郎の「豪」に埼玉栄の「栄」、監督の道紀の「道」から一字ずつもらってしこ名をつけているほど結束は固い。

19年3月場所現在で、平幕妙義龍(32)を含め十両以上の関取10人、幕下以下にも元横綱大鵬の孫の納谷(19)、春場所で初土俵を踏んだ高校個人5冠の北の若(18)ら若手の有望力士もそろっている。

 

 

 

 


金子兜太記念館開設へ 皆野町

2019年03月11日 12時51分43秒 | 金子兜太



18年2月に98歳で亡くなった秩父郡皆野町出身の俳人金子兜太さん忍ぶため、同町の「兜太・産土(うぶすな)の会」は、兜太さんの生誕100年に当たる19年9月23日に実家の旧病院を改修して「壺春堂記念館」を開設することを決めた。

1500万円と見込まれる総費用は寄付を募って集める。すでに兜太さんが主宰した俳句誌「海程」旧同人からは200万円が寄せられているという。

木造トタンぶきの建物(床面積120平方m)のうち、兜太さんが遊んだりした客間や仏間などを保存し、愛用の文具などを展示する。残りの診療所や台所はカフェスペースにし、「兜太ファンの聖地にしたい」と意気込んでいる。

壺春堂は、兜太さんの父親で秩父音頭の生みの親である金子元春さん(俳号・伊昔紅)が開業していた病院の名前だ。兜太さんは、皆野小から旧制熊谷中まで壺春堂で起居していた。今は兜太さんのおいの金子桃刀(ももと)さんが同じ敷地で金子医院を開いている。