何かとジャンル分けしたがるのは日本人の悪いクセで、アタシも以前、クリスチャン映画は大きく5つに分けられると言う話しをした。ところがもう一つ、とても重要なのを忘れていた。
それは、 “福音的でも何でもないけど一つの真実を伝えている映画” これはある意味、クリスチャンに対する問題提議でもあり、アタシ的にはこういうのが一番好きである。以前紹介した“フライト"や、“アメリカンスナイパー”なんかがこれにあたる。
ところで今日観たのは、離婚したばかりのアメリカ人のオバサンと、見合い結婚したばかりのシーク教徒のオジサンの、実に何てことない話しなのだが、人生でふいに訪れる災難が淡々と描かれ、とは言えそれで死ぬワケにも行かないので、何とか希望を持ち直しつつ、懸命に生きている中高年...これが中々良かったのである。
つまり、落第でも、クビでも、離婚でも、事故でも、破産でも、何でもいいのだが、取り敢えず、そういった経験の一つや二つなければ、この映画に共感することは難しい。ただ、アタシははたまに教会で“結婚セミナー”をさせていただくことがあり、この映画はその教材として使えそうだったので、ちょっと得をした気分であった。
その映画の中で、ドライビングスクールの先生をしているオジサンが、キレながら運転しているオバサンにこんなことを言う。
「人生には突然、思いもしないことが起きて来る。だけど、それを路上に持ち込んではいけない。一度ハンドルを握ったら、その時があなたの人生の全てなんだから。だから大事にしなさい」
と言うことで皆さん、今日も安全運転で行きましょう!ハレルヤ
オリンピックの試合を観ていると、よく選手が試合前に十字を切ったり、チームメイトと肩を抱き合って祈っているシーンをよく見かける。ネイマールにいたっては、“100% JESUS”ハチマキである。
世界舞台では、こういった自然に行なわれていることが、何故か日本では全く自然ではなくなってしまう。
「コーチのおかげ、応援してくれた皆さんのおかげ」が、「神様のおかげ」となると、「この人宗教やってんのかしら?」になってしまうのだ。
日本人は、自然の素晴らしさ、人間の素晴らしさを人一倍謳歌する国民だが、それを包括している神様の素晴らしさに全然つながらないところが、日本人最大の弱点である。
真面目で、忠実で、緻密で、努力家の日本人が神様を知ったら、メダルの数は絶対に増えると思うのだが・・
8月15日にNHKで放送された 「ふたりの贖罪~日本とアメリカ・憎しみを越えて~」は、 淵田美津雄とジェイコブ・ディシェイザー(敬称略)という、この二人の名前をご存知ない人は是非、一度見ておいていただきたいプログラムである。
淵田美津雄はあの真珠湾攻撃の総指揮官。ジェイコブ・ディシェイザーは、日本への復讐心に燃え、 片道分の燃料しか入ってない爆撃機でアメリカから名古屋まで飛んで行って、決死の爆弾投下をした人物。(これが日本本土初の空爆。アメリカ人にも神風特攻隊みたいなのがいたのだ..)
戦場の修羅場をくぐり抜け、奇跡的に生き延びたこの二人は、戦後、なな何と宣教師となって自ら爆撃した地に“非難囂々されまくり”を承知で赴き、決死の宣教活動をディシェイザーは日本で、淵田はアメリカで行なった。彼らをめぐる感動的なエピソードは、かなり強力な証しとなるので、是非皆さん、フォローしておいていただきたい。
さて、この番組のタイトルは、“謝罪”となっているが、先だってのメッセージでもお伝えした通り、戦争に対して謝罪が要求されたり、謝罪が適応されたことは一度もない。世の中「すみません」で済むんだったら、警察も軍隊も必要ないのだ。
淵田美津雄は人々にこう訴えていた。
「無知が無理解を生み、無理解が憎悪を生み、憎悪が戦争を生む。戦争は互いの無知から起こったのであり、謝罪ではなく、 互いに理解するため戦争の愚かしさ、憎しみの連鎖を断ち切らなければならない」と。
不詳、えんぢぇる田中はいみじくもこう訴え続けている。
「世の中の悲惨は全て、聖書に対する無知と無理解から来ているのダ!」
と言うわけで、聖書の最終章である黙示録にキチンと至るために、聖書全般をもう一度おさらいしよう!の目的で、“一日一章”ではなく、“30分 de 一巻” えんぢぇる流聖書講解を、次週から66回にわたって行う。
もはや細部にはこだわってられないので、誤解・中傷を恐れず、編集なしの言いたい放題の30分間!未だクリスチャンじゃないけど聖書を知りたい方、クリスチャンだけど未だ地域教会に属しておられない方は是非、私達と共に学んで行きましょう! メッセージご希望の方は、goodnewsstation@gmail.com まで
実に44年ぶりの総合2連覇達成!!
「絶対金!」と、周りから当然のように期待され、ところが試合中はウクライナの選手にずっとリードされ続け、
誰もが「あぁぁ今回は銀かぁ..仕方ないかぁ・・」と、誰もが思ってた時、最後の鉄棒でわずか0.099点の差で大逆転
これはもう、ホントスゴイです
あのおさげの熱血お母さんも、優勝が決まった瞬間、数十秒間“きょとん”としてましたから。。
それと、どこからの支援もなく、存在すら知られず、11年間の血と涙の末にメダルを獲得したカヌーの羽根田選手には泣けた
いつも“ふんにゃらふんにゃら”のアタシごときが言うのは実にお恥ずかしい限りだが、
今までどれだけ苦しい訓練に耐え、どれだけ大きな試練を乗り越えて来たことだろうか・・
「リバイバルは絶対に起こるのぢゃ!」という意気込みで帰国したものの、
「あれ?先生、何やってんすか?そんなことより楽しいイベントにしましょうよ」みたいな雰囲気にいつの間にかなっちゃって、
「そうねぇ、先ず身近かな一人から救うことが先決だから・・」と、一見まともなようで、かなり消極的な姿勢になっていた。
彼らの十分の1(100分の1かっ!?)も努力してないのに、自分の狭い了見の中に福音を押し込めて納得していたことを反省...。
同じ日本人として勇気と希望とNever Give Up!! を再確認させていただいた。
これをクリスチャンが適応しないことには、神様にホント申し訳ないことになる。
あなた方は知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなた方も賞を得るように走りなさい。(Ⅰコリント9:24)
聖書には何故、このような愚かで、理不尽で、残虐なことが書かれてあるのか?
それが、偽らざる人間の歴史だからである。その姿は4千年前も今も何も変わっていない。
臭いものに蓋をし、事実を湾曲し、人を美化したりして、真実が語れる訳がない。
だから聖書は、人がどう曲解しようと、こんなことはおかしいと思われようとも、
事実は事実として、失敗は失敗として、何一つ脚色することなく書いてある。
それを読む側も、自分のことを棚に上げ、客観視して読んでいる間は、何時まで経っても聖書は分からない。
聖書は人のために書かれたものだが、人の都合に合わせては書かれていないからだ。
そこが、聖書が信頼に値する大きな根拠なのである。(メッセージより抜粋)
今年最後の一般公開メッセージ、現在YouTubeにて配信中!