エンジェル田中のホボ毎日記

☆私たちは何を知り、何を祈り、何を伝えるべきなのか? 大衆伝導師“エンジェル田中”が語るレアな聖書メッセージ!

人生の危機管理

2015年01月30日 | 日記

 私達は、時の権力、偏見、おかしなイデオロギー、世間の風潮や先入観に囚われることなく、

 この世を動かしている闇の力を洞察し、真に価値のあるものを識別し、世間からの誤解を恐れることなく、自分の使命に従って生きて行く。

 その使命とは・・

 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、多くの人々が躓き、互いに裏切り、憎み合うようになり、不法が蔓延り、多くの人の愛が冷えていく..。

 このような悪い時代だからこそ、一人でも多くの人々に、救いの福音を伝えて行く。実にこの事に尽きる。

 その使命を遂行するために必要な事とは・・ (メッセージより抜粋)

 

私にはギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。(Rome1:14)

 


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 http://www.goodnewsstation.com/hcmsg013015.mp3


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喜びの手紙 II

2015年01月23日 | 日記

主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます

 生きるか死ぬかの人生の崖っ淵にいながら、パウロは何一つ取り乱すことなく、確かな信念を持ち続けていた。

 その姿を見ていた看守はおそらくこう考えていたに違いない。

 “何時殺されるか分からない身でありながら、獄中で歌を歌っているこいつらはいったい何者なんだ?”

 怖さを紛らわすため?助かることが最初から分かってたから?それとも怖さで気がふれたのか?

 いや、そうではない。

 「今の状況は自分の力ではどうしようもない。神は最善しかなさらないのだから、それに信頼しよう。

 もし、ここで自分の人生が終わったとしても、それとて最善なのだ。であるなら、最後は神への賛美で締めくくろうじゃないか!」

 生死の淵にいながら、一点の曇りもないこのパウロの行動を見ていた看守は、

 “・・こいつらは他のヤツらとは違う!彼らが信じていると言う神は“本物だ!” と、直感的に知ったのである。

 ところが、今度はその看守が、突然生死の境に放り込まれてしまった。

 「ど、どうしよう?」そこで看守はパウロに助けを求め、「どうしたら救われるのか?」と聞いた。

 その看守へのパウロの答が、この御言葉なのである。

 


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坊主憎けりゃ・・

2015年01月20日 | 日記

 「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ということわざがあるが、

 今、イスラム諸国に対して肯定的なイメージを持っている日本人はほぼ皆無だろう。

 ところが、多くのイスラムの人たちは、

 「日本は、自分たちの痛みを分かってくれる唯一の先進国」なのだと言う。

 米国主導によるテロ戦争で、イラクやアフガニスタンなどで多くの民間人犠牲者を出した彼らは、

 無差別空襲と二度にわたる原爆を経験している日本人なら、それが理解出来るはずだと考えているのである。

 

   

  

 アタシたちが問題としているのは、イスラムの人たちを支配している間違った宗教・思想であり、イスラムに住んでいる人たちではない。

 アタシたちが憎むべきものは、人を破壊させる“罪”であって、破壊された“罪人”ではないのだ。

 愛であり、義である神の存在がなければ、結局人間社会は「勝てば官軍」の世界。

 勝った者の主張が正義となり、敗者は除外される。

 そんなことばかり繰り返している愚かな人類の歴史に、

 「お前ら、もうええ加減にせんかぁ~~ぃぃ!!」と、最後に神はもう一度地上に介入される。

 これが世に言う“キリストの再臨”である。

 よって、なるべく公正な視線で世の中の動向を見極めつつ、再臨に対する準備をする。

 それがアタシたちクリスチャンの生きる姿勢なのである。

 

   私達の戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊相手にするものなのです。(エペソ6:12)

 

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喜びの手紙 I

2015年01月17日 | 日記

 そもそも、どういう目的で神は人を創造されたのか?

 それは、「神が人を喜び、人が神を喜ぶため」

 一言で言うと、「人を祝福するため」なのである。

 人を祝福するとは、相手を褒め、励まし、相手の存在を肯定し承認すること。

 だが、愛されたことのない人が、人を愛することが出来ないように、

 祝福されたことがない人が、人を祝福することは出来ない。

 従って、どれだけ自分が神から祝福されているのかと言うことを知ることが、祝福の源となる。

 とは言え、「あなたは祝福されているのよ、さあ喜びなさい!」と 言われても、

 「はい、分かりました。喜びます」とは行かない。

 人は嘘では喜べない。

 人が本当に喜ぶためには、喜べるだけの根拠というものが必要なのである。(メッセージから抜粋)

 


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祈れ!

2015年01月13日 | 日記

 「真剣に勝負すれば、必ず何らかの道筋が見えて来るはずなのに・・・」

 と、政府に訴えた横田夫妻の悲痛な叫びを傍観しているようでは、クリスチャン以前に人として失格であろう。

 こういった拉致関連の報道を見る度に、アタシと年齢が近いせいか、どうしても連想してしまう人がもう一人いる。

 それは「有本恵子さん」。

 実名を公表しての救出活動は「横田めぐみさん」からだと思われているようだが、実はこの人が最初である。

 彼女は留学先のヨーロッパで1983年、デンマークから出した手紙を最後に消息を絶った。この時有本さん22歳。

 

 ご両親は、社会党、自民党、外務省、警察等々、あらゆる手を尽くして、救出願いを提出したが、何処も誰も動いてくれなかった。

 外務省に至っては、「危険なので、秘密にしておきましょう」と口止めする始末。

 それから7年後、何故か突然「週刊文春」が恵子さんのことを取材に訪れ、未だ政府から認定されていない他の拉致被害者と共に記者会見を開いて、救出を訴えることになった。

 しかし、この記者会見の2週間後に行なわれた「第一回日朝国交正常化交渉」では、恵子さんをはじめ、この時に記者会見を行なった被害者たちの名前が出されることはなかった。

 そして何の進展もないまま、今日(2015年1月13日)は、恵子さん55歳の誕生日である。http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150113/k10014643971000.html 

 これは余談だが、もし、安倍さんの任期中、誰か拉致被害者が返されるとしたら、この有本恵子さんである可能性が高い。

 何故なら、恵子さんのご両親が救出願いを提出した場所の一つが、当時自民党幹事長だった安倍晋太郎氏の事務所。その時に、その訴えを直接聞いていたのが、当時父親の秘書をしていた安倍晋三氏であった。

 つまり、恵子さんは安倍さんが拉致問題と関わる原点となった拉致被害者なのである。

 

 ・・・話しが長くなってしまったが 新年早々何でこんな話しをしているのかと言うと、理由は三つ。

 一つ、何か有事の際は、政府も、警察も、役所も、マスコミも、あてになどならないと言うことを、肝に銘じておくこと。

 一つ、「知りませんでした」は、神の前では通用しないこと。(殺人も傍観も神の視点からすると大差ない)

 一つ、「と言っても、自分に何が出来るの?」という大方の見解に対し、クリスチャンは「祈る」という強力なサポートが出来ること。

 

 「そもそも、平和で安心できる生活なんて、この世には存在しない」曽野綾子さんが言ったことは本当である。

 「神は幸福よりも、成長を欲してられる」これは、C.S.ルイス。

  平穏であることが人生なのではない。怒り、哀しみ、喜び、そういった感動の総量が、人生なのである。

 

 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしは知っています。(Romans 8:28)



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慌てるな!

2015年01月07日 | 日記

 「慌てるな」・・ これが、今年アタシに与えられた御言葉である。

 「あ? どこが御言葉やねん?」と、思われるかも知れないが、

 聖書の言葉は、絶えず実際の自分の生活、実際の自分の問題と拮抗していなければ意味はない。

 雲の上のスローガンみたく、額に入れて部屋に飾っておいたところで、

 相田みつおの「にんげんだもの・・」程度の適応?で終わっていたのでは、

 クリスチャンは実にアホみたいな存在である。(パウロは「世の中で最もミジメ」と言っている)

 

 アタシは性格的に、熟考して事を始めると言うより、実際に動きながら事の真意を確かめて行くタイプなので、

 自分の予想に反して、事が展開して行く事が多々ある。

 だが、その試行錯誤が失敗につながるというのではなく、

 アタシの問題は、それ以前のもっと根源的な部分。

 つまり、己の注意散漫さに対する反省がない。故に、悔い改めに繋がらない。よって、同じ失敗を繰り返す。。

 人間は、悔い改めない以上、その問題を一生引きずることになるのである。

 

 約束の地を目指していたユダヤ人たちが、どうしても直面しなければならなかった最大の問題は『戦争』であった。

 世間の人々から見たら、彼らは、エジプトから逃亡して来た亡国の民以外の何者でもなく、

 元奴隷で、自分たちの住処を探して荒野をうろついている実にアブナイ連中。

 また、彼ら自身も、いつ誰に殺られるか分からない、夜もおちおち寝ていられない生活が続いていたことだろう。

 そんな彼らに神はこう言うのである。 

 

 『いよいよ戦いの場に臨んだならば、祭司は進み出て、民に告げ、次のように言わねばならない。

 イスラエルよ、聞け!あなたたちは、今日、敵との戦いに臨む。

 「ひるむな」

 「恐れるな」

 「慌てるな」

 「うろたえるな」

 あなたたちの神、主が共に進み、敵と戦って勝利を賜るからである』と。

 

 この世は霊的戦いの戦場である。

 「戦場」などと言うと、「神は愛なのに・・」などとチャラケタことを言う人がいるが、

 同じ家族や教会同士でさえ、平和にやって行けてないアンタが、何で申命記やヨシュア記の前になると「人類皆兄弟」みたいなスローガンを掲げるのよ??

 そういった平和ボケした日本人や、霊的無知なクリスチャンたちは、このまま時流の波にさらわれてしまうこと必須である。

 

 かく言うアタシも、今までの動きは、実にワキが甘かった。

 突っ走って来たのはいいけれど、フト後ろを振り返って見ると、誰もいないかった!? というテイタラク・・・

 そのような実を結ばないことのないことにエネルギーを浪費しないための、アタシにとっての最も適切なアドバイス。

 それが、この「慌てるな」の一言なのであった。

 

 皆さんも、聖書の言葉は自分にとって、より現実的に、より具体的に、

 自分のウィークポイントを自覚することは案外難しいことだけど、そこがなければ人は成長しないから。

 大上段に構えることはない。ちょっとだけ勇気と謙遜さを持って、2015年も邁進していただきたいと切に願う。

 



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喜びの手紙

2015年01月02日 | 日記

今回の年末・年始にかけての足立区と南流山での礼拝は、アタシの大好きな“喜びの手紙”ピリピ書から。

流山の礼拝に、アーバインの家の教会で知り合ったご家族が、久しぶりに顔を出してれた。

小さなお子さんを連れて電車に乗り、駅から20分歩いて礼拝まで来てくれるというのは、かなりの労力と言うか、覚悟が必要である。(ノンクリスチャンなのに

でもそれがまた聞き分けの良い子供たちで、アタシの1時間以上に及ぶメッセージ中、一度もぐずらない。

お会いするのは、年に一度か二度くらいなのだが、実は、アタシはこの家族に癒されている。

それと、初めて来てくれた人が3名。

最後のアプリケーションでは、互いの相手のことを褒め合い、賑やかな礼拝でありました。

  

さて、そもそも神は、何故人を創造されたのか?

それは、「神が人を喜び、人が神を喜ぶため」。

一言で言えば、人を祝福するため(創世記1:28)である。

人を祝福するとは具体的に言うと、

相手を褒め、励まし、承認すること。

生きる気力を無くした病人、 殻に閉じこもった子ども、 ドラッグにはまっている若者、対人恐怖症の女性、 パチンコ中毒の主婦、アル中のオジさん、 偏屈な老人・・彼らに共通していることは「喜び」の欠如..。

もし、私たちの教会に「喜び」がなかったとするならば、それは本末転倒も甚だしいことになる。

私たちクリスチャンは、人々を褒め、励まし、喜ぶためにこの世に使わされているからである。

従って、教会で世間話しなどをしている時間はない!のである。

 

メッセージは、近日中にアップします。お楽しみに。


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