「慌てるな」・・ これが、今年アタシに与えられた御言葉である。
「あ? どこが御言葉やねん?」と、思われるかも知れないが、
聖書の言葉は、絶えず実際の自分の生活、実際の自分の問題と拮抗していなければ意味はない。
雲の上のスローガンみたく、額に入れて部屋に飾っておいたところで、
相田みつおの「にんげんだもの・・」程度の適応?で終わっていたのでは、
クリスチャンは実にアホみたいな存在である。(パウロは「世の中で最もミジメ」と言っている)
アタシは性格的に、熟考して事を始めると言うより、実際に動きながら事の真意を確かめて行くタイプなので、
自分の予想に反して、事が展開して行く事が多々ある。
だが、その試行錯誤が失敗につながるというのではなく、
アタシの問題は、それ以前のもっと根源的な部分。
つまり、己の注意散漫さに対する反省がない。故に、悔い改めに繋がらない。よって、同じ失敗を繰り返す。。
人間は、悔い改めない以上、その問題を一生引きずることになるのである。
約束の地を目指していたユダヤ人たちが、どうしても直面しなければならなかった最大の問題は『戦争』であった。
世間の人々から見たら、彼らは、エジプトから逃亡して来た亡国の民以外の何者でもなく、
元奴隷で、自分たちの住処を探して荒野をうろついている実にアブナイ連中。
また、彼ら自身も、いつ誰に殺られるか分からない、夜もおちおち寝ていられない生活が続いていたことだろう。
そんな彼らに神はこう言うのである。
『いよいよ戦いの場に臨んだならば、祭司は進み出て、民に告げ、次のように言わねばならない。
イスラエルよ、聞け!あなたたちは、今日、敵との戦いに臨む。
「ひるむな」
「恐れるな」
「慌てるな」
「うろたえるな」
あなたたちの神、主が共に進み、敵と戦って勝利を賜るからである』と。
この世は霊的戦いの戦場である。
「戦場」などと言うと、「神は愛なのに・・」などとチャラケタことを言う人がいるが、
同じ家族や教会同士でさえ、平和にやって行けてないアンタが、何で申命記やヨシュア記の前になると「人類皆兄弟」みたいなスローガンを掲げるのよ??
そういった平和ボケした日本人や、霊的無知なクリスチャンたちは、このまま時流の波にさらわれてしまうこと必須である。
かく言うアタシも、今までの動きは、実にワキが甘かった。
突っ走って来たのはいいけれど、フト後ろを振り返って見ると、誰もいないかった!? というテイタラク・・・
そのような実を結ばないことのないことにエネルギーを浪費しないための、アタシにとっての最も適切なアドバイス。
それが、この「慌てるな」の一言なのであった。
皆さんも、聖書の言葉は自分にとって、より現実的に、より具体的に、
自分のウィークポイントを自覚することは案外難しいことだけど、そこがなければ人は成長しないから。
大上段に構えることはない。ちょっとだけ勇気と謙遜さを持って、2015年も邁進していただきたいと切に願う。
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