エンジェル田中のホボ毎日記

☆私たちは何を知り、何を祈り、何を伝えるべきなのか? 大衆伝導師“エンジェル田中”が語るレアな聖書メッセージ!

New Year 2018

2017年12月30日 | 日記
わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしには全てが可能です。

教会という所は不思議な所で、年始には必ず新しい標語を掲げるものの、何の査定もしないまま、次の標語に移るという事を毎年続けている。かく言うウチの教会も、「あれ?去年の標語何だっけ?」と言ったテイタラク。これではマズイだろうと言うことで、年の終わりにはちゃんと審議査定するという約束で、「今年掲げる標語は“ピリピ4章13節!」と言ったら、皆から「おぉ〜!」という反応があった。

さて、この御言葉が与えられた理由の一つは、以下のユンさんによる警告・提言に再度触発された事にある。彼とは前に一度だけお会いした事がある。その時は、Heavenly Manがアメリカで出版されたばかりで、どこの教会でも彼はヒーロー扱いだった。そんな周囲の騒ぎを避けるかの様に、集会後、人目を避ける様にそそくさと去って行かれたユンさんの後姿が印象的だった。

ユンさんとは歳も人生の目的も同じ、アタシにとって厳しい迫害下で生きている中国のクリスチャン達の姿が、今でも活動の大きなモーティベイションになっているので、“初心忘るべからず、初代教会に帰れ!”の意味において、いつも手本にせざるを得ない信仰の大先輩なのである。

    

何十億という地球の住人が、自分達の罪のためにイエスが死なれた事、イエスが天国に通じるたった一つの道である事を知らないまま暮らし、そして死んでいる。多くのクリスチャンは物質的な富に恵まれているが、堕落した状態で暮らしている。彼らは金銀は持っているが、イエスの御名によって立ち上がる事も、歩む事もしない。

教会の建物は絶対に必要ないと確信したい。教会の建物はあなた方が求めているリバイバルをもたらさない。これ以上、所有物を増やしてもリバイバルはやって来ない。リバイバルをあなたの教会にもたらすために必要な事は、主の御言葉である。御言葉が欠落しているのである。確かに多くの説教や教えを述べた何千もの音声やビデオはあるが、御言葉の本当の真実を含んだものはほとんど見当たらない。しかし、あなた方を自由にするのは真実である。御言葉によって喜んで変えられない限り、御言葉の意味を本当に知る事は出来ない。真のリバイバルは、必ず信仰者に行動と魂の獲得という応答を生じさせる。神が本当にあなたの心の中で働けば、決して黙っている事は出来ないのだ。

イエスは私達のために命の全てを投げ出したが、私達はそのイエスにほんの少し時間、お金、人生しか与えていない。“何という恥辱か!? 悔い改めよ!”イエスは本当に知る価値のあるお方だ。私達の人生の全てを受け渡すだけの価値のあるお方だ。もし、あなたの命をイエスに捧げるのなら、あなたは決して後悔する事はないだろう。イエスに従いますか? (Brother Yun)


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「クリスマスなんてなければいい」

2017年12月18日 | 日記
「クリスマスなんてなければいい」。シングルマザーの3人に1人がそう考えたことがあると回答したとする調査結果を、サンタクロースを活用したボランティアをしているNPO法人「チャリティーサンタ」が明らかにした。余裕がないことなどが理由で、10人に1人は子どもに「うちにはサンタは来ない」と伝えたことがあると答えた。今年の調査は9月に実施、103人が回答した。「クリスマスなんてなくてもいい、来ないでほしい」と思ったことがあるかという問いに、38人(36.9%)が「ある」と回答。理由は「お金がかかる」「時間の余裕がない」「2人きりで寂しい」など。クリスマス時期の気持ちを複数回答で尋ねると「楽しい」が58.3%でトップだったが「子どものためにもっとやってあげたい」が56.3%、「お金がかかって大変」が42.7%%と続いた。年収が低くなるにつれ「切ない」「しんどい」という回答が増えた。(12/16/2017 産經新聞)

キリスト抜きのクリスマスの末路・・などと言っては身も蓋もないが、正に切ない日本の現実である。「私達には本当のクリスマスの意味を伝える義務がある!」と、改めて思わされたニュースであった

II コリント (30分de一巻 Vol.47)

2017年12月14日 | 日記
私達が悩み苦しむ時、それはあなた方の慰めと救いになります。(1:6)

コリントを離れてから約3年後、教会で深刻な問題が発生している事を聞いたパウロは、その解決に向けて手紙を出し、テモテを教会に送った。それとほぼ同時に、教会から3人の信者が質問状を持って、エペソにいたパウロの元を訪れた。その時に直接、コリント教会が抱えている問題を聞いたパウロがその質問状の返信として送ったのが第一コリント書である。ところがこの返信は、逆にパウロに対する不信感を煽らせ、両者の関係が悪化してしまう。このままではダメだと言うことで、パウロはエペソから約300㌔の海路を渡り、急遽コリントを訪問した。しかし、その必死の努力も空しく、結局、最初の手紙も、第一コリント書も、そしてこの2度目の訪問も、全て失敗に終わってしまった。

そこでパウロは涙ながらに3通目の手紙書いた。パウロはこの涙の手紙をコリントの人々がどのように受止めたか気になり、教会に派遣していたテトスからの報告を受ける為、トロアスで待ち合わせていた。ところが、待てど暮らせどテトスは来ない。この時のパウロはかなり心労が重なり、相当困惑していた。やっとの思いで、マケドニヤでテトスと会うことが出来、コリント教会の人々が悔い改めたという報告を受けて、やっと安堵の気持ちで書いたのがこの第二コリント書である。ところが、これでハッピ−エンドで終わらないところがコリント教会が一筋縄では行かない所で・・(メッセージより抜粋)



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I コリント (30分de一巻 Vol.46)

2017年12月09日 | 日記
あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(10:13)

新約聖書が書かれたのは、AD50〜90年の約40年間、使徒の記録は30年間程の出来事なので、新約聖書における配列順の意味は、書かれた時代順ではなく、書かれた背景にある。コリント書が書かれたのは、ローマ書よりも前だが、その配列の意味は、ウチの教会がいつも言っている御言葉を理解する際に必要な、観察、解釈、適応の原則にある。福音書と使徒は福音ムーブメントの客観的事実に関する観察、ローマ書はその事実に対する正しい解釈、コリント書はその解釈の具体的な適応なのである。(メッセージより抜粋)



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ローマ (30分de一巻 Vol-45)

2017年12月02日 | 日記
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私は知っています。(8:28)

本書は、パウロが自分で設立していない教会に宛てた唯一の手紙である。執筆されたのは、皇帝クラウディウスが、ユダヤ人追放令を出してから7-8年後。既にその時には多くのユダヤ人クリスチャン達がローマに帰還していたのだが、今度はユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンとの間で、諍いが起こるという事態が発生した。その社会的・神学的対立を解決するためには先ず、正しい福音理解が土台となる。その事を示したのが、本書の第一義的な意味である。(メッセージより抜粋)



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