彼は、バビロンのユダヤ居住区を流れる川の畔で、神から召命を受けた。
その時、バビロンにはもう一人の預言者がいた。つまり、ダニエルは王宮で、エゼキエルはユダヤ人居住区で、そして、廃墟となったエルサレムではエレミアが、それぞれ異なった環境下で、それぞれに必要な主の御言葉を伝え語ていたのである。
エゼキエルが捕囚の地で、生涯迄語り続けていた事は、「今、我々には、国も、神殿も、自分の家さえもないが、一つだけ、大切なものがある。それは“主が共におられる!”主はエルサレムの神殿から去られたが、今、遠い異国の地いる私達の元へ来て下さっているだ!」
お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。(18:31)
エゼキエルが語ったこの“新しい霊の預言”に、キリストが十字架で死なれ、天に挙げられたのは、私達一人一人に聖霊がおくられるためであったという、聖霊降誕の原型を見ることが出来るのである。(メッセージより抜粋)
{ Los Angelesのマーケットで売っていた“エゼキエルパン”。話しによると日本のCostcoでも売っているそうである。何でパンなの?という人は、4章9節を参照}