ルカ16章に記載されているラザロと金持ちの話は、死後の世界について記されている独特な記事である。今日はこの箇所から、私たち人間には類推不可能な死後の世界について、分かることをまとめてみた。
死後の世界は実在する
イエスが譬え話を話される時は必ず「ある人が・・」と語られる。しかし、この箇所では「ラザロ」という実名が記されているので、この話しは譬え話ではなく、実際の話しである。そして、死後の世界には、金持ちがいる地獄(的)な場所と、ラザロがいる天国(的)な場所の2か所あることが分かる。
死後の世界に実在する責苦
(金持ちがいる地獄的な場所は、地獄(ゲヘナ)ではなく、陰府(ハデス)という場所)
陰府の異なる世界は、相互に見ることは出来ても、移ることは出来ない
死後、生きている人と交信することは出来ない
死後には、現世の記憶が継続している
そして結論!死後に救いはなく、陰府の苦しい場所に行きたくなかったら、聖書を読むべし。人生の答えの全ては聖書にある
今は、映画や様々なメディアで、終末時代について多くのテーマが取り上げられている。教会内でも携挙の時期やセカンドチャンスなどに関する様々な教えが流布しているが、それらの中には間違った教えも少なくない。 私たちキリスト者は、それらの情報を鵜呑みにすることなく、あくまで聖書によって解き明かし、聖書によって確認しなければならない。今回は、終末に関する意見を持つ前に、これだけは確認しておくべきいくつかの前提について確認してみよう。
死後の世界(臨死体験)について、体験談を語る人は少なくない。しかし、それらの体験が、本当に神から来た啓示なのか?単なる本人の夢・幻なのか?はたまた悪霊から来たものか?人間にはそれを立証することは出来ない。従って、死後の世界を客観的に検証する手立ては、聖書以外にはない。
聖書が語る救いとは、先ず、神が“私”に対して語られた言葉であることであり、他の誰かについてではない。誰が天国に行き、誰が地獄に行くのか?ということは、人間には決めることは勿論、知ることも出来ない。
イエス・キリストが再臨され、この世の全ての人間は裁かれるが、その裁きの基準は「イエス・キリストの十字架を信じ、受け入れている人か、そうでない人かの一点のみ。
天国には、罪を持ったままの人は誰一人いない。
人は誰しも、原罪を持った存在としてこの世に生まれて来る。それは子供であっても、どんな親切な人であっても、誰一人として例外はない。そして罪を持っている以上、人はそのままの状態では天国に入ることが出来ない。そこから人を解放するために成し遂げられた唯一の方法、それがイエス・キリストの十字架である。
恵みとは、それを受ける価値も資格もないの与えられた神からの一方的な愛。この恵みは真に悔い改めるなら、誰にでも与えられる。しかし、かと言って、恵みを受ける側の私たちが、「何故自分には恵みが与えられなかったのか?」と主張することは出来ないし、「自分は与えられたのに、何故、あの人には与えられなかったのか」?とも言うことは出来ない。
この金持ちは死んで地獄のような苦しい場所に落とされてしまったのだが、このことが現実だと判ったなら、誰もが「私はまちがっていた!」、「出来るなら最初からもう一度やり直したい!」と、考えて当然のはず。ところがこの金持ちは、自分がこのような状態に陥っているにも係らず、何と悔い改めていないのだ。相変わらずラザロを自分の使い走りのように考え、自分の立場を変えることをしていない。
これは何を意味しているのか?それは、人間は一度死んだらその時点でその人の意識や価値観は固定されてしまい、死んだ後はもはや、悔い改めることが出来ないと言うことなのだ。だからこそ私たちは今、生きている間に一人でも多くの人々に福音を伝え、その人がイエス・キリストに出会えるようにセッティングしてあげることが必要である。
“悔い改めは現世でしか出来ない”
どうぞ、この厳粛なる事実を知ってください。家の教会はそのために、いつでもどこでも福音を伝える場としてここにある。今日、あなたの人生を天国行きの人生に変換させよう!この恵みは救いを求める人には、誰にでも与えられるのだから!ハレルヤ
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