エンジェル田中のホボ毎日記

☆私たちは何を知り、何を祈り、何を伝えるべきなのか? 大衆伝導師“エンジェル田中”が語るレアな聖書メッセージ!

ヨハネ (30分de一巻 Vol-43)

2017年10月24日 | 日記

初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。(1:1)

面白い事に、福音書の始まりは序々に元へと辿っている。マルコはイエスから、マタイはアブラハムから、ルカはアダムから、そしてヨハネはこの世の始まりから・・。

言葉(ロゴス)という言葉は、当時のギリシヤ文学で使われていた哲学用語で、この世の全てのものは、それが形として存在する前に、考えにおいて存在していた。その考えをロゴスと言っていた。例えば、このテー ブルがつくられる前に、こういったテーブルをつくろうという考えがあり、従ってこのテーブルはそれ以前から存在していたのだ..と。

ヨハネはそこから一歩突っ込んで、そのロゴスとは単なる“考え”ではなく、この世の全てのものを創ろうと考えていた“存在”である。つまり、「初めに言葉があった」という意味は、「初めに全てのものを創造された神がおられた」という事。この冒頭からも分かる様に、ヨハネの福音書は、神としてのキリストを記しているのである。(メッセージより抜粋)


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ルカ (30分de一巻 Vol-42)

2017年10月17日 | 日記

わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。(1:47)

このマリア賛歌が、“わたしは民全体への大きな喜びをあなた方に伝える” イエス降誕の喜びの告知へと繋がり、それを受けた羊飼い達は賛美し、アンナも賛美しながら喜びの訪れを人々に伝え、イエスに癒された人々は賛美しながら家へと帰って行った。

ところが当の弟子達は・・イエスが処刑されてしまったことに恐れ、失望し、燦々たる暗い顔としていた。

それから3日後、復活したイエスと会った時、彼らは大喜びしたが、その時は未だ疑い半分。

しかし、天に挙げられるイエスを見て、弟子達はイエスの前にひれ伏し、大喜びしながらエルサレムに戻って行った。

この時にはじめて、弟子達の喜びは、天使が告げた掛け値無しの喜びに、最後の最後に到達したのである。

この“継続する喜びの連鎖”。これがルカに一貫して貫かれているテーマである。(メッセージより抜粋)


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マルコ (30分de一巻 Vol-41)

2017年10月11日 | 日記

「本当にこの人は神の子だった」(15:39)

こう告白したのはローマの百人隊長。イエスを十字架につけた当事者である。

彼はイエスが十字架上で語った言葉が、詩編の言葉だったなどとは知る由もなく、このイエスの十字架が聖書預言の成就だったのだという事以前に、彼は聖書自体を全く知らない。

そんな人物が何故、イエスが神の子であると悟る事が出来たのか?その理由は大きく二つ考えられる。

一つは、急に全地が暗くなり、地震が起き、神殿の垂れ幕が真二つに裂けたという、奇跡(超状現象)を見たからである。

そしてもう一つは、十字架上でのイエスの姿であった。

彼はプロの戦争指揮官として、緊急事態における人間の行動形態という事を体験的によく知っていた。人は、現実の死を前にすると、嘘をつくことも、虚勢を張ることも出来ない。その時はその人の本音だけが出るのである。

ところが、十字架という極限状態の中で、恐れもせず、わめきもせず、恨みもせず、最後の最後迄、自らの死を全うしたイエスの姿を見て、「この男は本物だ。この男が言っていた事は本当だったのだ..」という事を、彼は理屈抜きで悟ったのである。

この世で最初に書かれた福音書は、この百人隊長(ローマ人)や日本人のように、歴史的、民族的に聖書的バックグラウンドが全くない人たちに向けに書かれた。これがマルコ福音書の第一の視点である。(メッセージより抜粋)


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マタイ (30分de一巻 Vol-40)

2017年10月04日 | 日記

イエスはそこを立ち、通りがかりにマタイという人が収税所に座っているのを見かけて「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。

  12弟子の中で福音書を書き残す事を任命されたのは、ヨハネとマタイの二人であった。ヨハネは弟子達の中でただ一人生き残り、イエスの愛(福音書)と裁き(黙示録)という2大テーマを後世に伝えた。そしてもう一人、福音書の筆者として指名されたマタイとは、どの様な人物だったのか?何故イエスはその任務をマタイに託されたのだろうか?

当時の取税人は今の税務署職員とは全く異なり、彼らの社会的位置は、羊飼い以下で遊女と同等。当時ローマの支配下にあったユダヤ人にとって、最も屈辱的だったのが、ローマに納めさせられる税金であった。汚らわしい異邦人が、神の民を支配するなどという許し難い状況の中、その手先になっている徴税人は、ユダヤ人にとっては売国奴以外の何者でもなかった。

この様な嫌な仕事を何故、引き受けるユダヤ人がいたのか?それは簡単な話しで、単に儲かるからであった。(マタイもザアカイもイエスを招いて盛大な宴会を催している)ちなみに本書には、“神か金か”、“畑に隠した宝”、“借金を帳消してもらった家来”、“金持ちの青年”、“タラントの例え”等々、お金に関する話が頻繁に登場する。

しかし、イエスはあえてマタイに会計係をさせなかった。それは、記録係としての役割を重要していた事ともう一つ。他の弟子達がマタイに対して、否定的な思いを抱かせないためであったと考えられる。(特にマタイと熱心党のシモンとは犬猿の仲であった事は想像に難くない)

マタイは12弟子の中でもとりわけ、この世の処世術・計算力・記述力に長けていた。カメラもレコーダもない時代、証拠として重用視されたのは、筆記による記録(当時の速記術)であった。マタイはその特種技能によって、イエスの言動を実際の目撃者として、正確に書き残す事が出来たのである。(メッセージより抜粋)


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