エンジェル田中のホボ毎日記

☆私たちは何を知り、何を祈り、何を伝えるべきなのか? 大衆伝導師“エンジェル田中”が語るレアな聖書メッセージ!

リバイバルの雨 Part III

2015年09月26日 | 日記

祈りは学問ではないが、私たちが「どう祈るべきか」については学ぶ(成長)する必要がある。
 
祈りが神との生きた会話ではなく、形式的・儀礼的な宗教行為に陥ってしまうと、祈りは単なる神への要求となる。

祈りとは、神への懇願ではなく、人が神との人格的な交わりに入るための霊的会話なのだ。

会話の基本は、先ず神に対する感謝。

感謝することによって、全ての良きものが、神から人に向かって流れて行き、それが喜びと平安へとつながって行く。

神は私たちに必要なものは全てご存知なのだから、本当に必要なものであれば神は必ず与えてくださる。

祈りとは“神の恵みを引き出すこと”に他ならないのである。

神への5つの祈り
1). 願い
2). 感謝
3). 悔い改め
4). 御心を聞く
5). 執り成し

神からの4つの応答 
1)安易な気持ちで祈ったことや、自己中心な祈り、また、結果的に本人のマイナスになる事や必要でない事を、神が叶えらないのは言うまでもない。それは応答されていないのではなく、NOという明確な応答である。(ヤコブ1:5-6 4:3)
2)待ちなさいという答え(忍耐とタイミングが必要なとき)
3)予期しない別の答え (求めている答が神の栄光を表す為成長が必要)
4)すぐにその通り、またはその祈り以上になる。   (メッセージより抜粋)



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信念と政(まつりごと)

2015年09月25日 | 日記

先日、「SEALDsのメンバーはキリスト教系の学生が多いと聞きましたが、彼らの活動と日本のリバイバルとは何か関係あるのでしょうか?」という質問をいただいた。

答えは、「 そんなもん、何も関係ありましぇ~~~ん!!!!」

SEALDsについてアタシが率直に思うことは・・先ず、名前が良くない。

シールズったら、通常、ビンラディンを暗殺した米軍の特殊部隊(SEALs)のことを連想するワケで、これは映画の話しじゃなくて、現実なので..素人がそう気易く付けちゃいかんと思うのよ。余計なお世話だけど。

「特定の支持政党を持ってない」ならば、何でキミタチ共産党の街宣車なんかデモに使わしてもらってんの??

本当に日本のためを思ってやってるんだったら、共産党や中核派との関係を切ってから、出直して来てちょうだい。ピリオド。

それにしても、一番悪いのは日本のマスコミである。

SEALDsの国会演説や、翁長知事の国連演説は取り上げて、我那覇真子(がなは・まさこ)さんの反対演説は全く無視。

この場に及んで、何故翁長さんが国連人権理事会に訴え出たのか?

我那覇さんのスピーチを、誰が姑息にもマイクの電源を切って遮ったのか? 

それだけ、日本を囲んでいる状況が緊迫しているということである。

「今の日本の若い人は根無し草で、私の周りにも精神的に苦しんでいる人がいる。沖縄の私達の世代は、仕事を掛け持ちするなど毎日生活するので精一杯の人も多い。こうした問題は政治と繋がっているが、当事者の若い世代は根本的な問題を考えるきっかけがなく、政治に無関心だ。フリーペーパーもそうだったが、日本の空気を変えるために必要な活動はなんでもやらなければと思っている」

我那覇さんのこの言葉に、アタシャ感動しました。

ノンクリの女の子(っても26だが)がこんなに頑張ってんのに、クリスチャンの若者はいったい何やってんだ??

「日本の教会の空気を変えるために必要な活動なら何でもやる!」と言う気概のある若者が一人ぐらい出て来てくれんもんかね? 

以下、我那覇さんの国連での演説模様を添付しておきます。


リバイバルの雨 Part II

2015年09月19日 | 日記

聖書に記されている初代教会の記録は、普遍的な教会の真理として、私達が教会活動の基本にすべき事柄である。それには、その活動について深く知り、それに習う姿勢が必要だが、それはごくシンプルなことである。彼らが「ひたすら(口語訳)」、「堅く(新改訳)」、「熱心に(新共同訳)」にやっていた4つのこと。(2章42節)それは、「使徒の教え」、「交わり」、「パン裂き」そして「祈り」であった。

使徒の教え
新約聖書がなかった当時、人々は使徒たちを通してキリストの言葉(福音)を聞いていた。「教え」という言葉には、「ケリュグマ・布告」と「ディダケー・教える」の二つあり、それが、「行って、あらゆる被創物に福音を述べ伝えなさい(マルコ16章15節)」と、「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい(マタイ28章19節)」のキリストによる福音宣教命令である。

福音を宣べ伝えること(ケリュグマ)と、イエスの教え・弟子訓練(ディダケー)に専念する。教会では、様々な活動がされているが、先ず何よりもキリストの教え福音を学び、その福音を人々に宣べ伝える。それが教会の第一義的な存在意義である。

交わり
福祉、奉仕、ボランティアといった言葉自体が存在していなかった当時、現在、政府や自治体がしていることを、教会が行なっていた。そのことを可能にしたのは、教会の信徒たちが目に見えるものではなく、目に見えない信仰、使命、天国の宝を共有しており、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」という霊的な交わりがあったからに他ならない。

交わりという言葉はもともと「共有」という意味で、ここで大切なことは、「交わり」とは、まず、 神と私たちとの交わりがあってこそ、信徒同士・隣人同士の献身的な交わりが可能となるという事を忘れてはいけない。

パン裂き
洗礼と聖餐は、キリストが世の終わりまで、私たちに守り続けるようにと教えた礼典である。聖餐式とは、私たちのために身体を裂き、血を流されたイエスの十字架の愛を心に刻み込むこと。そこに表わされた罪の赦しを受け、その赦しを他の人に分け与えることによって、人々を救い導いて行くのである。

 「心を開いて私を受け入れるなら、わたしはあなた方と共に食事をするだろう」と、イエスが私たちを食卓に招いていてくださっているように、罪赦され、聖められ、キリストとの交わり中に入れていただき、その交わりの中で、キリストに養われ、満たされて行く。 真の礼拝と聖餐とは、 このようなキリストとの交わりを深めて行く行為なのである。(メッセージより抜粋)



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集団的自衛犬

2015年09月18日 | 日記

国連事務総長が中国の軍事パレードに出席したり、赤旗が “安保法案にキリスト者次々抗議”と一面に書いたり、“はぁ??” 続出の今日この頃...。

わざわざ相撲中継を押してまで、ライブ中継されていた国会での茶番パフォーマンスに至っては、ハラが立つとか、呆れるとかを通り越し、もはや笑うしかない。

幸い、“憲法改正や安保法案についてどう思いますか?”といった類いの質問は、アタシのところへは来ないので、ヤレヤレと思ってた矢先、“集団的自衛権って、聖書の教えに反することなのですか?”という質問が来てしまった。

このような専門外のことについて、あーだこーだと主張するほどの見識は持ち合わせていなのだが、集団的自衛権に関しては、アタシがいつも連想してしまう事件があるので、今日はそれをご紹介しておこう。

それは、1年ほど前の ド忠犬・ショコラの武勇伝である。

『ある日、田中クンが奥さんと愛犬ショコラを連れて森を歩いていたら、クマに遭遇してしまった。襲いかかるクマの攻撃に田中クン絶体絶命のピンチ!!ところが、勇敢にもクマに飛びかかったショコラに驚いたクマは退散。それで田中クンは命びろいをしましたとさ。でめたし でめたし。。』

クマはあくまで田中クンを襲っているのだから、ショコラは自分に危害が及ばない限り、クマを攻撃してはいけない。奥さんが襲われてもただ見てるだけ。それが今迄の日本のキマリである。果たしてそのキマリが聖書的であるのかどうか?少なくとも、それでは日本を危機から守れないし、根本的な解決にも至らないことだけは言える。ちなみに集団的自衛権が閣議決定されたのは、この事件の3日後であった。

   去年、毎日新聞に掲載された記事を添付しておきます。柴犬好きにはえぇ話しや~~

■クマ襲撃 63歳男性けが、飼い犬が立ち向かう 金沢
28日午前9時10分ごろ、金沢市御所町2の山道で、犬の散歩をしていた近くに住む田中考季さん(63)と妻富美子さん(59)が親子連れの熊に遭遇、孝季さんが親熊に襲われた。夫婦が連れていた飼い犬で雌の柴犬「ショコラ」が親熊に向かってほえて飛びかかると、熊たちは逃げた。孝季さんは頭と尻をかまれてけがをしたが、命に別条はなかった。富美子さんは無事で「ショコラは普段はおとなしく番犬にならないけど、今日はよく頑張ってくれた。立ち向かってくれなかったら、今ごろどうなっていたかとぞっとする」と話した。ショコラは10年近く前から飼っているという。石川県警金沢東署などによると、熊は親1頭、子2頭の計3頭。孝季さんは、木に登っている子熊を発見した直後に、背後から親熊に襲われたという。2人は近くの民家に駆け込んで助けを求め、住民が119番通報した。現場の近くには住宅地があり、県警や猟友会などが付近を捜索したが、熊は見つからなかった。(6/28/2014 毎日新聞)


リバイバルの雨 Part I

2015年09月12日 | 日記

終わりの時にわたしの霊をすべての人に注ぐ」 この使徒2章17節の御言葉は、ヨエル書3章1節からの引用である。この「注ぐ」という言葉は、その前の章(ヨエル2:23)の「秋と雨と春の雨」にか かっており、その描写は、聖書で度々登場する(エレ5:24、ホセ6:3、ゼカ10:1)表現である。

イスラエルには雨が集中して降る雨期が年に2回あり、それは10~11月にかけて作物がしっかりと種付けされるために降る秋(前)の雨と、豊かに収穫する ために3~4月にかけて降る春(後)の雨。この2つの雨は、イスラエルに対する救いと恵みの象徴であり、 終わりの時代に生きる私達クリスチャンにとっても重要な意味を持つ。

ペンテコステに降った聖霊の雨によって教会が誕生し、その後の長い乾期を経て、今、最後の収穫の時(イエス再臨の前)に、全ての人々に再び聖霊の雨が降る という預言。また、この「注ぐ」という言葉は、シトシトと降る春雨のような降り方ではなく、バケツをひっくり返したような土砂降りを意味する。

この日、イスラエル3大祭りの一つ・春の収穫祭だったペンテコステの日に、ペテロの説教によって、3千人の人々が救われた。この日は小麦の収穫祭のみならず、多くの人々の魂の収穫祭であった。

最初12人から始まったイエスの弟子は、1章15節で120人、2章41節で3000人、4章4節で5000人、そして21章20節では幾万人に膨れ上 がった。今、世界中で毎日7万人の人々が救われており、中でも中国は、実に1億4千万人のクリスチャンを擁する世界一のクリスチャン国家へと変貌を遂げた。それは実に「終わりの時にわたしの霊をすべての人に注ぐ」という、御言葉の成就だった。(メッセージより抜粋)



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クリスチャン流断捨離

2015年09月10日 | 日記

聖書を、特に黙示録を読んでいるか否か・本当に信じているか否かは、その人の生活態度を見ればよく分かる。

もし、本当に再臨の時が近いと言うことが客観的事実として判ったとする・・としたら、まずあなたは何をするだろうか?

街頭に赴き、タスキをかけてメガホン片手に路傍伝道という方法もあるが・・ 先ず、自分自身の近辺整理だろ。

何も家売って、仕事辞めて、教会に集まって祈れ!などと言っているのではない。(アタシは本当に家を手放したが)

第二次大戦下のヨーロッパの教会で、実際にそれをやっていたクリスチャンたちが大勢いたそうだが、それはマズイ。

(そういった慌て者クリスチャンのために書かれたのが第二テサロニケなので、後でよく読んどくように)

   

確かに時は近付いている。が、今は大艱難時代前の産みの苦しみの時代である。

ちなみに、クリスチャンの大多数を占める艱難期前携挙説の人にとっては、もうそれは何時来てもいい状況にあるので、世間の人達と一緒になってアホなことをしていていいはずがない。「アナタ、自分が信じてること、本当に分かってるの??」と言いたくなる世界である。

それはともかく・・アタシがリバイバルを感じている理由の一つは、今年に入ってから自分自身を取り巻く環境の変化。

主は、アタシの生活に随分刈り込みを入れてくださった。(日本人流に言えば断捨離か?)

今迄、一度も主に刈り込みをされていない人、またはそれを拒否して来た人。

あなたが本当に聖書の言葉を信じているのなら、今の内からもう少し身軽になっておいた方が良い。

その時になったら家の中にあるものなど、取りに行ってるバアイではないのだから..。

 
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仏教と福音 Part III

2015年09月06日 | 日記

仏教と福音の共通点

1) 極楽(天国)の存在。

2) 衆生(現世)において確かなものは何一つない。

3) 人は皆、罪人(凡夫)である。

4) 人は皆、修行(行い)によっては救われない。

5) 人は皆、阿弥陀仏(永遠の光)に南無(帰依)することによって救われる。



仏教と福音の相違点

1) 仏教の目的は、人生における「苦」から解放され、涅槃に入ること。

2) 福音の目的は、諸問題の源である「罪」から解放され、神の国に入ること。

3) いくら祈っても、そこに「悔い改め」がなければ人は救われない。

4) 人が救われるのは、イエス・キリストの十字架と復活のみによる。

5)イエス・キリストは神で、仏陀は人間である。



仏教は、キリストの十字架のない時代に、人は皆、罪人であり、そこから救われる為には永遠の修行が必要であると洞察し、

そして、それはとても人の力では無理である事を、中国の景教から学んでいた。

今まで日本人が、仏教を通しておぼろげに見て来た“永遠の救い”の根拠は何処にあったのか?

元来、信仰深い国民である日本人が求め続けて来た「知られざる神(使徒17:23)」の実態...。

仏教の教えの源流を辿り、その実態を検証し、真の救いを願い求めて行く時、私たちは聖書の中からその答を見出す事が出来る。

日本人の歴史・文化・精神性・宗教心を単に否定するではなく、福音によってそれらを包括する。

「神ご自身が日本人の中より起こし給えし福音によらなければ、日本のリバイバルはない(内村鑑三)」のである。ハレルヤ!!




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